ひそかにおもんみれば、三皇五帝の国をおさめ、・四岳八元の民をなづる、皆是うつはものをみて官に任じ、身をかへりみて禄をうくるゆへなり。君、臣をえらんで官をさづけ、臣、をのれをはか(っ)て職をうくるときは、任をくはしうし成をせむること、労せずして化すといへり。かるがゆへに舟航のふね海をわたる、必ず 橈楫 だうしふ の功をかり、鴻鶴のつる雲をしのぐ、かならず羽翮の用による。帝王の国をおさむ、かならず匡弼のたすけによると云々。国の匡輔はかならず忠良をまつ。任使其人をうるときは、天下をのづからおさまると見えたり。 いにしへより今にいた(っ)て、王者の人臣を賞する、和漢両朝、おなじく文武二道をも(っ)て先とす。文をも(っ)ては万機の政をたすけ、武をも(っ)ては四夷の乱をしづむ。天下をたもち国土をおさむるはかりこと、文を左にし、武を右にすとみえたり。たとへば人の二の手のごとし。一もかけてはかなひがたし。一両端も(っ)てかなふとき、四海風波の恐なく、八荒民庶のうれへなし。夫澆季に及びては、人おご(っ)て朝威を蔑如し、民たけくして野心をさしはさむ。よく用意すべし。尤抽賞せらるべきは勇士也。されば唐の太宗文皇帝は、ひげをやきて功臣にたまひ、血をふくみかさを吃て戦士をなでしかば、心は恩のためにつかへ、命は義によ(っ)てかろかりければ、身をころさんことをいたまず、たゞ死をいたさんことをのみおもへりけりとなん。みづから手をおろし、われとよくたゝかはねども、人にこゝろざしをほどこせば、人皆帰しけり。又讒侫の徒は、国の蟲賊なり。栄花を旦夕にあらそひ、勢利を市朝にきほふ。その捏造のすがたをも(っ)て、忠賢の、をのがかみにある事をにくみ、其姦邪の心ざしをいだひて、富貴のわれさきたらざる事をうらむ。是みな愚者のならひ也。用捨すべきは此事なり。 ここに近来権中納言兼中宮権大夫・右衛門督藤原朝臣信頼卿といふ人ありき。人臣の祖、天津児屋根の尊の御苗裔、中関白道隆の八代の後胤、幡磨三位季隆の孫、伊与三位仲隆が子なり。しかれども、文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし。只朝恩にのみほこ(っ)て、昇進にかゝはらず。父祖は諸国の受領をのみへて、としたけよはひかたぶけて後、わづかに従三位までこそいたりしか。これは近衛司・蔵人頭・后の宮の宮つかさ・宰相中将・衛府督・検非違使別当、これらをわづかに二三ヶ年間にへのぼ(っ)て、歳廿七にして、中納言右衛門督に至れり。一の人の家嫡などこそ、かやうの昇進はし給に、凡人にをひては、いまだかくのごとくの例をきかず。又官途のみにあらず、奉禄も猶心のまゝ也。かくのみ過分なりしかども、猶不足して、家にたえてひさしき大臣の大将に望をかけて、凡おほけなきふるまひをのみしけり。されば見る人目をふさぎ、きく者耳をおどろかす。微子瑕にもすぎ、安禄山にもこえたり。余桃の罪をもおそれず、たゞ栄花の恩にぞほこりける。其頃、少納言入道信西といふ者あり。山井の三位永頼卿八代の後胤、越後守季綱が孫、鳥羽院御宇、進士蔵人実兼が子也。儒胤をうけて、儒業をつたへずといへども、諸道を兼学して諸事にくらからず、九流百家にいたる、常世無双の宏才博覧也。後白河上皇の御乳母、紀伊二位の夫たるによ(っ)て、保元々年よりこのかたは、天下大小事を心のまゝにとりおこな(う)て、絶たるあとをつぎ、すたれたる道をおこし、延久の例にまかせて、大内に記録所ををき、訴訟を評議し、理非を勘決す。聖断わたくしなか(っ)しかば、人のうらみものこらず。世を淳素に帰し、君を尭舜にいたし奉る。延喜・天暦の二朝にもはぢず、義懐・惟成が三年にもこえたり。大内は久しく修造せられざりしかば、殿舎傾危し、楼閣荒廃して、牛馬のまき、雉兎のふしどゝ成たりしを、一両年の中に造畢して、遷幸なし奉る。外郭を重ねた大極殿・豊楽院・諸司八省・大学寮・朝所にいたるまで、花のような垂木、雲のかた、大きな建物のかまへ・成風の功、としをへずして不日になりしか共、民のわづらひもなく、国のつゐへもなかりけり。内宴・相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、詩歌管絃のあそび、おりにふれてあひもよほす。九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし。 去ぬる保元三年八月十一日、主上御位をすべらせ給て、御子の宮にゆづり申させ給へり。二条院これなり。しかれども、信西が権位もいよ<威をふるひて、飛鳥もおち、草木もなびくばかり也。又信頼卿の寵愛も、猶いやめづらかにして、かたをならぶる人もなし。されば両雄はかならずあらそふならひなるうへ、いかなる天魔が二人の心に入かはりけん、其中あしくして、事にふれて不快のよしきこえけり。信西は信頼を見て、何様にも此者天下をもあやふめ、国家をもみだらんずる仁よと思ひければ、いかにもしてうしなはゞやと思へども、当時無双の寵臣なるうへ、人の心もしりがたければ、うちとけて申あはすべき輩もなし、つゐであらばとためらひゐたり。信頼も又、何事も心のまゝなるに、此入道我をこばんで、うらみをむすばん者かれなるべしと思ひて(ん)げれば、いかなるはかりことをもめぐらして、うしなはんとぞたくみける。 或時信西にむか(っ)て、上皇仰なりけるは、「信頼が大将をのぞみ申はいかに。必しも重代清花の家にあらざれども、時によ(っ)てなさるゝ事もありけるとぞつたへきこしめす。」と仰られければ、信西、すは此世の中、いまはさてぞとなげかしくて申けるは、「信頼などが大将になりなば、たれかのぞみをかけ候はざらん。君の御政は、つかさめしをも(っ)てさきとす。叙位除目にひが事いできぬれば、かみ天のぎゞにそむき、しも人のそしりをうけて、世のみだるゝはしなり。其例漢家・本朝に磐多なり。さればにや、阿古丸大納言宗通卿を、白河院、大将になさんとおぼしめしたりしかども、寛治の聖主御ゆるされなかりき。故中御門藤中納言家成卿を、旧院、大納言になさばやと仰られしかども、諸大夫の大納言になる事は絶てひさしく候。中納言にいたり候だに、過分に候物をと、諸卿いさめ申されしかば、おぼしめしとまりぬ。せめての御心ざしにや、年の始の勅書の上書に、中御門新大納言殿へとぞあそばされたりける。是を拝見して、まことになされまいらせたるにも猶すぎたる面目かな、御心ざしのほどかたじけなしとて、老の涙をのごひかねけるとぞ承り候。いにしへは大納言猶も(っ)て君も執しおぼしめし、臣もゆるかせにせじとこそいさめ申しか。いはんや近衛の大将をや。三公には列すれども、大将をばへざる臣のみあり。執柄の息・英才の輩も、此職を先途とす。信頼などが身をも(っ)て大将をけがさ(ん)か、いよ<おごりをきはめて謀逆の臣となり、天のためにほろぼされ候はん事いかでか不便におぼしめされで候べき。」といさめ申けれども、げにもとおぼしめしたる御気色もなし。信西あまりの勿体なさに、唐の安禄山がおごれる昔を絵にかきて、巻物三巻を作りて、院へまいらせけれども、君はなをげにもと思食たる御事もなく、天気他にことなり。信頼卿は、通憲入道が散々に申ける事をもれ聞て、やすからぬ事におもひければ、つねに所労と号し、出仕もせず、伏見の源中納言師仲卿を相かたら(う)て、彼在所にこもりゐて、馬にのり、はせひき、早足、ちからもちなど、ひとへに武芸をぞ稽古せられける。是しかしながら、信西をうしなはんため也。

平治物語 - 02 信頼信西を亡ぼさるる議の事
子息新侍従信親を、大弐清盛の聟になして近づきより、平家の武威をも(っ)て本意をとげんと思ひけるが、清盛は大宰大弐たるうへ、大国あまたたまは(っ)て、一族みな朝恩をかうぶり、うらみ有まじければ、よも同意せじとおもひとゞまる。左馬頭義朝こそ、保元の乱以後、平家におぼえおと(っ)て、やすからず存ずる者と思はれ、近づきて懇に志をぞかよはしける。つねに見参の度には、「信頼かくて候へば、国をも庄をも望み、官加階をも申されんに、天気よも子細あらじ。」とのたまふ。「かやうに御意に懸られ候条、身に取て大慶なり。いかなる御大事をも承て、一方はかため申さん。」とぞの給ひける。しかのみならず、当帝の御外戚、新大納言経宗をもかたらひ、中御門藤中納言家成卿の三男、越後中将成親朝臣は、君の御けしきよき者也とかたらひ、御乳人の別当惟方をもたのまれけり。中にも此別当は母方の叔父なりしに、我弟尾張少将信俊を聟になして、ことさらふかくぞちぎられける。 かやうにしたゝめめぐらして、隙をうかゞはれける程に、平治元年十二月四日、大弐清盛宿願ありとて、嫡子左衛門佐重盛あひぐして、熊野参詣の事あり。其ひまをも(っ)て信頼卿義朝をまねき、「信西は紀伊の二位の夫たるによ(っ)て、天下大小事を心のまゝに申おこなひ、子どもには官加階ほしいまゝになしあたへ、信頼がかたさまの事をば、火をも水に申なす。讒侫至極のひがもの也。此入道久しく天下にあ(っ)ては、国もかたぶき世もみだるべきわざはひのもとひなり。君もさはおぼしめしたれども、させる次もなければ、御いましめもなし。いさとよ、御辺始終はいかゞあらん。大弐清盛もかれが縁となりて、源氏の人々をば申しづめんとするなどこそうけ給はれ。よきやうにはからはるべき物を。」とかたれば、義朝申されけるは、「六孫王より七代、弓箭の芸をも(っ)て、いまに叛逆の輩をいましめ、武略の術をつたへて、凶徒をしりぞけ候。しかるに去ぬる保元に、門葉の輩おほく朝敵と成て、親類みな梟せられ、已上義朝一人にまかりなり候へば、清盛も内々はさぞはからひ候らん。これらはもとより覚悟の前にて侍れば、あながちおどろくべきにては候はね共、かやうにたのみ仰候うへは、便宜候はゞ、当家の浮沈をもこゝろむべしとこそ存候へ。」と申されければ、信頼大によろこんで、いか物づくりの太刀一腰みづからとりいだし、且は悦の始とてひかれたり。義朝謹で請取て出られけるに、しろくくろく、さる体なる馬二疋、鏡鞍をいて引(っ)たてたり。夜陰の事なれば、松明ふりあげさせて、此馬を見、「合戦の出立に、馬程の大事は候はず。近此の御馬にて、此龍蹄をも(っ)て、いかなる強陣なりとも、などかやぶらで候べき。合戦は勢にはよらず、はかりことをも(っ)てすといへ共、小をも(っ)て大に敵せず共申せば、頼政・光泰・光基・季実等をもめされ候へ。其うへこれらをはじめて、源氏共、内々申むねありと承り候。」と申して出られければ、信頼卿、月比日比こしらへをかれたる兵具なれば、おどし立たる鎧五十領、追様につかはされけり。
平治物語 - 03 三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事
信頼やがて、此人々をよびて、頼むべきよしのたまへば、「一門の中の大将、すでにしたがひ奉るうへは、左右にあたはず。」とてかへりければ、大によろこんで、同九日の夜子刻ばかりに、信頼卿、左馬頭義朝を大将として、其勢五百余騎、院の御所三条殿へをしよせ、四方の門々をうちかため、右衛門督乗ながら、南庭にう(っ)た(っ)て、「年来御いとおしみをかうぶりつるに、信西が讒によ(っ)て、信頼うたれまいらすべき由承候間、しばしの命たすからんために、東国のかたへこそまかり下り候へ。」と申せば、上皇大きにおどろかせ給ひて、「なにものが信頼をばうしなふべか(ん)なるぞ。」とて、あきれさせ給へば、伏見源中納言師仲卿、御車をさしよせ、いそぎめさるべきよし申されければ、「早火をかけよ。」と声々にぞ申ける。 上皇あはてゝ御車にめさるれば、御妹の上西門院も、一つ御所にわたらせ給ひけるが、同御車にぞ奉りける。信頼・義朝・光泰・光基・季実等、前後左右にうちかこみて、大内へ入まいらせ、一品御書所にをしこめたてまつる。やがて佐渡式部大夫重成・周防判官季実、ちかく候じて君をば守護し奉る。さても此重成は、保元の乱の時も、讃岐院の仁和寺の寛遍法務が坊にわたらせ給ひしを、守護し奉て、讃州へ御配流ありし時も、鳥羽までまいりし者なり。いかなるゆへにや、二代の君を守護しまいらすらんと、人々申あへり。 三条殿のありさま申もをろか也。門々をば兵どもかためたるに、所々に火あげたり。猛火虚空にみちて、暴風煙雲をあぐ。公卿殿上人、つぼねの女房たちにいたるまで、是も信西が一族にてやあるらんとて、射ふせきりころせば、火にやけじといづれば矢にあたり、矢にあたらじとかへれば火にやけ、箭におそれ、火をはゞかるたぐひは、井にこそおほくとびいりけれ。それもしばらくの事にて、下なるは水におぼれ、中なるはともにをされて死し、うへは火にこそやけけれ。つくりかさねたる殿舎の、はげしき風にふきたてられて、灰燼地にほどばしりければ、いかなる物かたすかるべき。彼阿房の炎上には、后妃采女の身をほろぼす事なかりしに、此仙洞の回禄には、月卿雲客の命をおとすこそあさましけれ。左兵衛尉大江家仲・右衛門尉平康忠、こゝを最期とふせぎたゝかひけるが、つゐにうたれてければ、家仲・康忠両人が首をほこのさきにつらぬき、大内へはせまいり、待賢門にさしあげて、おめきさけびたる外は、しいだしたる事ぞなき。 同丑刻に信西が宿所、姉小路西洞院へをしよせて、火をかけたれば、女わらはべのあはてゝまよひ出けるをも、信西がすがたをかへてやにぐらんとて、おほくの者をきりふせけり。 保元の乱已後は、理世安楽にして、都鄙とざしをわすれ、歓娯遊宴して、上下屋をならべしに、火災の余煙に民屋おほくほろびしかば、こはいかに成ぬる世の中ぞ、此二三年は、洛中殊更しづかにして、甲冑をよろひ、弓箭を帯する者もなかりしかば、たま<もちありく人も、はゞかりなる体にこそありしに、今は兵ども京白河にみちみてり、行末いかゞあるべきと、なげかぬ人もなかりけり。
平治物語 - 04 信西の子息闕官の事付けたり除目の事並びに悪源太上洛の事
少納言入道信西が子息五人闕官せらる。嫡子新宰相俊憲・次男幡磨中将成憲・権右中弁貞憲・美濃少将長憲・信濃守雅憲也。上卿は花山院大納言忠雅、職事は蔵人右中弁成頼とぞきこえし。さる程に、太政大臣・左右の大臣・内大臣已下、公卿参内し給ひしかば、僉議あ(っ)て、信西が子ども尋らるゝに、幡磨中将成憲は、太宰大弐清盛のむこなれば、もしや命たすかるとて、六波羅へおちられたりけるを、宣旨とて、内裏よりしきなみにめされければ、力及ばでいでられけり。博士判官坂上兼成行むかひ、成憲をうけ取(っ)て、内裏へまいりければ、尋ぬべき子細ありとて、兼成にあづけをかる。権右中弁貞憲は、もとゞりきり、法師にな(っ)て、かたはらにしのびたりけるを、宗判官信澄、たづねいだして、別当に申たりしかば、これも信澄にあづけられけり。 やがて除目おこなはる。信頼卿は、もとよりのぞみを懸たりしかば、大臣大将をかねたりき。左馬頭義朝は、幡磨国をたまは(っ)て幡磨守になる。佐渡式部大夫は信濃守になる。多田蔵人大夫源頼範は摂津守になる。源兼経は左衛門尉に成。康忠は右衛門尉になる。足立四郎遠基は右馬允に成。鎌田次郎政清は兵衛尉に成て、政家と改名す。今度の合戦にうちかちなば、上総国を給べき由のたまひけり。 爰に義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平、母方の祖父三浦介がもとにありけるが、都にさはぐ事ありときゝて、鞭をう(っ)てはせのぼりけるが、今度の除目にまいりあふ。信頼大によろこびて、「義平此除目にまいりあふこそ幸なれ。大国か小国か、官も加階も思ひのごとく進むべし。合戦も又よくつかまつれ。」と宣へば、義平申けるは、「保元に伯父鎮西八郎為朝を、宇治殿の御前にて蔵人になされければ、急々なる除目かなと、辞し申けるはことはりかな。義平に勢を給候へ。阿辺野辺にかけむかひ、清盛が下向をまたん程に、浄衣ばかりにてのぼらん所を、眞中にとりこめて一度にうつべし。もし命をたすからんと思はゞ、山林へぞにげこもり候はむずらん。しからば追(っ)つめ<とらへて、首をはね獄門にかけて、其後信西をほろぼし、世もしづまりてこそ、大国も小国も官も加階もすゝみ侍らめ。みえたる事もなきに、かねてなりて何かし候べき。たゞ義平は東国にて兵どもによび付られて候へば、もとの悪源太にて候はん。」とぞ申ける。信頼、「義平が申状荒議也。そのうへ阿辺野まで馬のあしつからかして何かせん。都へいれて、中に取こめうたんずるに、程やあるべき。」とのたまひければ、みな此義にしたがはれけり。ひとへに運のつきけるゆへにこそ。 大宮太政大臣伊通公、其比は左大将にておはしけるが、才学優長にして、御前にても、つねにおかしき事を申されければ、君も臣も大きにわらはせ給ひ、御あそびも興をもよほしけり。「内裏にこそ武士どもしいだしたることはなけれ共、思ひのごとく官加階をなる。人をおほくころしたるばかりにて、官位をならんには、三条殿の井こそおほくの人をころしたれ。など其井には官をなされぬぞ。」とぞわらはれける。
平治物語 - 05 信西出家の由来並びに南都落ちの事付けたり最後の事
さるほどに、通憲入道を尋られけれ共、行衛をさらにしらざりけり。彼信西と申は、南家の博士、長門守高階の経俊が猶子也。大業もとげず、儒官にも入られず、重代にあらざるなりとて、弁官にもならず、日向守通憲とて、何となく御前にてめしつかはれけるが、出家しけるゆへは、御所へまいらんとて、鬢をかきけるに、鬢水に面像をみれば、寸の首、剣の前にかゝ(っ)て、むなしくなるといふ面相あり。大におどろき思ひける比、宿願あるによ(っ)て、熊野へまいりけり。切部の王子の御前にて、相人にゆきあひたり。通憲をみて相じていはく、「御辺は諸道の才人かな。但、寸の首、剣のさきにかゝ(っ)て、露命を草上にさらすといふ相のあるはいかに。」といひて、一々に相じけるが、行末はしらず、こしかたは何事もたがはざりければ、「通憲もさ思ふぞ。」とて、歎きかなしみけるが、「それをばいかにしてかのがるべき。」といふに、「いさ、出家してやのがれむずらん。それも七旬にあまらばいかゞあらん。」とぞいふ。さてこそ下向して御前へまいり、「出家の志候が、日向の入道とよばれんは、無下にうたてしうおぼえ候。少納言を御ゆるしかうぶり候はゞや。」と申ければ、「少納言は一の人もなりなどして、左右なくとりおろさぬ官なり。いかがあらん。」と仰られけるを、様々に申して御ゆるされをかうぶり、やがて出家して、少納言入道信西とぞいひける。子ども或は中少将にいたり、或は七弁にあひならばせて、ゆゝしかりしが、つゐに墨染の袖に身をかへても、露の命を野辺の草葉にをきかねしは、昨日のたのしみ、けふのかなしみ、諸行無常はたゞ目の前にあらはれたり。吉凶はまつはれる縄のごとしといふぞことはりなる。 信西九日の午刻に、白虹日をつらぬくといふ天変をみて、今夜御所へ夜うち入べしとは、かねてしりたりけるにや、此様申いれんとて、院の御所へまいりたれば、折ふし御遊にて、子どもみな御前に祠候したりしかば、其興をさましまいらせんも無骨なれば、ある女房に子細を申をきてまかり出にけり。宿所にかへり、紀伊二位に、「かゝる事あり。子どもにもしらせたまへ。信西は思ふむねあ(っ)て、ならのかたへ行なり。」といひければ、尼公もおなじ道にとなげかるれ共、様々にこしらへとめて、侍四人相具し、秘蔵せられける月毛の馬に打乗て、舎人成澤をめし具し、南都のかたへおちられけるが、宇治路にかゝり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける。 石堂山のうしろ、しがらきの峯をすぎ、はる<”わけいるに、又天変あり。木星、寿命家にあり。大伯経典に侵す時は、忠臣君にかはり奉るといふ天変なり。信西大におどろき、もとより天文淵源をきはめたりければ、みづから是をかんがふるに、「つよき者よはく、よはき者はつよしといふ文あり。これ君おごる時は臣よはく、臣おごる時は君よはくなるといへり。今、臣おご(っ)て君よはくならせ給べし。忠臣君にかはるといふは、おそらく我なるべし。」とおもひて、あくる十日のあした、右衛門尉成景といふ侍をめして、「都のかたに何事かある。みてかへれ。」とてさしつかはす。成景馬にうち乗てはせゆくほどに、小幡たうげにて、入道の舎人武澤といふ者、院の御所に火かゝ(っ)て後、禅門ならへときゝしかば、此事申さんとてはしりけるに行あひ、しか<”の由をかたり、「あねが小路の御宿所もやきはらはれ候ぬ。是は右衛門督殿、左馬頭殿をかたらひ、入道殿の御一門をほろぼし給はんとのはかりことゝこそ承り候へ。其よしをつげまいらせむとて、奈良へまいり候。」と申せば、下臈におはし所しらせてはあしかりなんと思へば、「汝いしくまいりたり。春日山のおく、しか<”の所也。」とをしへて、成景は京へのぼるよしにて、田原のおくにかへり、入道に此由を申せば、「さればこそ、信西が見たらん事は、よもたがはじとおぼえつるぞ。忠臣君にかはりたてまつるとあれば、しかじ、命をうしな(う)て御恩を報じ奉らんには。但息のかよはん程は、仏の御名をとなへまいらせんと思へば、其用意せよ。」とて、穴をふかくほり、四方に板をたてならべ、入道をいれ奉り、四人の侍もとゞり切て、「最後の御恩には法名を給はらん。」と、をの<申せば、左衛門尉師光は西光、右衛門尉成景は西景、武者所師清は西清、修理進清実は西実とぞ付られける。其後大きなる竹のよをとをして、入道の口にあてゝ、もとどりを具してほりうづむ。四人の侍、墓の前にてなげきけれ共、叶べき事ならねば、なく<都へかへりけり。
平治物語 - 06 信西の首実検の事付けたり大路を渡し獄門にかけらるる事
舎人成澤も、おなじくみやこへのぼりけるが、「最後の乗馬なり。紀伊二位にみせ奉らん。」とて、むなしき馬をひいてかへる程に、出雲前司光泰五十余騎にて、信西がゆくゑをたづね来るに、木幡山にてゆきあふ。馬も舎人も見しりたれば、うちふせてとひけるに、はじめはしらずといひけれども、つゐにはありのまゝにぞ申ける。則此男をさきに追(っ)立てゆくほどに、あたらしく土をうがてる所あり。「あれこそそよ。」とをしゆれば、すなはちほりおこしてみれば、いまだめもはたらき息もかよひけるを、首を取てぞかへりける。 出雲前司光泰、信頼卿に此由申せば、同十四日に、別当惟方と同車して、光泰の宿所、神楽岡へゆきむか(っ)て、此首を実検す。必定なれば、やがて明る日大路をわたし、獄門にかけらるべしと定られければ、京の中の上下、河原に市をなして見物す。信頼・義朝も、車をたてゝこれを見る。十五日の午刻の事なるに、晴たる天俄にくれて星いでたり。是を不思議といふ所に、此首、信頼・義朝の車の前をわたる時、うちうなづいてぞとをりける。見る人みな、「只今かたきをほろぼしてんず。おそろし<。」とぞいひける。朝敵にあらざれば、勅定にもあらずして、首を獄門にかけらるゝも、前世の宿業とは申ながら、去ぬる保元に、たえて久しき死罪を申おこなひしむくひかとぞ人々申ける。 さて紀の二位の、おもひあさからず、偕老同穴のちぎりふかかりし入道にはをくれ給ひぬ、僧俗の子共、十二人ながらめしこめられて、死生もいまださだまらず、たのみまいらせつる君も、をしこめられさせ給ひて、月日の光さへはか<”しくは御覧ぜず、我身は女なれ共、信頼のかたへとりいだしてうしなはんと云なれば、つゐにはのがれがたしとぞなげかれける。
平治物語 - 07 唐僧来朝の事
彼紀二位と申は、紀伊守範元が孫、右馬頭範国が女也。八十嶋下に三位に叙し、やがて従二位して、紀伊二位とぞ申ける。信西が妻室と成て、ふしぎおほき中に、唐僧来て、生身の観音なりとて拝する事あり。 其故は、久寿二年の冬の比、鳥羽の禅定法皇、熊野山に御参詣ありしに、その此那智山に唐僧あり。名をば淡海沙門といふ。彼僧、異国にて、我此身をすてずして、生身の観音をおがみ奉らんといふ願をおこし、天にあふぎて一千日の間祈請をなす。千日に満じける夜、「汝生身の観音をおがまんと思はゞ、日域にわた(っ)て、那智山といふ所におもむけ。」と天の示現をかうぶり、渡海の本望をとげて、彼山に参籠せるなり。法皇此よしきこしめして、唐僧をめされければ、御前へ参て、「和尚、々々。」礼す。唐僧なれば、語をきゝしろしめす人なし。たゞ鳥のさへづるごとくなりしを、信西末座に候けるが、「禅加此法誤除浄精にて来れるか。」ととへば唐僧のいはく、「さにあらず弘誓破戒説除大精にて来たる也。」とこたふ。さて唐僧、・信西がことばをきいて、才覚の程をはからんとや思ひけん、異国の事をとひかけたり。「震旦の長安城より、天竺の舎耶大城へは何万里ぞ。」ととへば、「十萬余里。」とこたふ。「遺愛寺と云寺はいづくにかある。」「天台山より西へさる事七百里、白楽天の世をのがれし所ぞかし。」とこたふれば、唐僧難義をとはんとや思ひけん、「扁鵲が門には何かある。」といふ。「延命といふ草をうへたり。是れを見る人、善をまねき、悪をさけ、寿命ひさしくのぶといふ。」「女陽が門にはなにか有。」「乱樹といふ木あり。三十年に一度、片枝に花さき、かたえだには菓なる。これをと(っ)てくふ人、酔事百余日、そのあぢはひ西王母が桃ににたり。」「長良国とはいづくぞ。」「都城よりたつみへさる事二百里なり。梵王のたち給ふ三百余尺の馬脳の塔あり。かの塔のもとには、摩訶曼陀羅華・摩訶曼珠沙華、四種の天華ひらけたり。釈尊燃燈仏のみもとにして、かみをおろし給ひし所也。」「大雪山には。」「薬寿王と云木あり。彼木の葉をつゞみにぬりて、うつ声をきく人、不老不死の徳を得たり。」「西山には。」「波珍と云虫あり。首にもろ<の財を戴き、つねに仏を供養し奉るおもひあり。」「長山には。」「三重の瀧あり。彼瀧の水をのむ人、大きにいかるこゝろあり。されども竹馬に鞭う(っ)て道心をもよほすといへり。」「瓠火琴を弾ぜしかば。」「四方のうろくづ陸にあがり。」「鈴宗笛をふきしかば。」「天人袖をひるがへす。」「唐の太宗は。」「甕のほとりにして、天下をおさむる先相あり。」と、一々にこたへければ、唐僧、「わが国よりわたれる者か、此国より来(っ)て学せる者か。」ととへば、「もとよりわれ此国の素生なれ共、若遣唐使にやわたらんずらんとて、天竺・震旦・高麗・新羅・百済を始て、五六ヶ年の間に、上一人より下万民の申かへたることばまで学したる也。」とこたへければ、「われ生身の観音をおがみ奉らんと、天の示現をかうぶ(っ)て、是まで来れり。なんぢ則生身の観音たり。我願むなしからず。」とて、信西を三度礼し、種々の引出物をしてけり。其後、信西我国のことばをも(っ)て此趣を奏しければ、君をはじめまいらせて、供奉の人々、皆不思議の思ひをなされけり。
平治物語 - 08 叡山物語の事
又、保元々年の春のころ、比叡山へ御幸なる。山門には、大師修禅定の具足どもあり。名字を御尋ありけるに、大衆ども、公家の才学をはからむとやおもひけん、「我山の財にて候へ共、まさしく名字をしりたる者候はず。」と、一同に申ければ、法皇、先年熊野にて、信西不思議の才学をふるひしかば、もしこれをもや知たるらんとて、めし出されければ、御前にまい(っ)てかしこまる。 先「一の箱の修禅定の具足の中に、勢手鞠ばかりにして、音ある物あり。是はいかに。」と御尋あれば、「禅鞠と申候。止観の第四巻にみえたり。たとへば、大師禅定のとき、ねぶりあれば、是を頂上にをく。ねぶればをのづからおつ。落れば音あり。かるがゆへに眠のさむる也。」「又二尺四五寸ばかりなる木のさきに、勢大柑子ばかりにして、やはらかなる物あり。」「大師修禅定の時、御身くるしき事おはしませば、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。是を禅杖といふ。」「二尺計ある木を、かせのごとくにちがへて、さきごとにきぬをかけてねりたる物あり。」「大師座禅に御むねいたむとき、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。助老と是をいふ。」「又枕に似たる物あり。」「その名を頭子と云。くはしくは梵網経にみえたり。これらを四種の物といふなり。」「第十九の箱は。」「下野国字佐の宮の御殿におさめらる。乙護法使者たり。明神あながちにおしませ給へば、人はいかでかしるべきなれども、或は宇賀神の法をこめ、或は陀天の法をこめ、大師手印をも(っ)て封ぜらると云々。不空絹索人骨の念珠も、此箱にありとかや。凡延暦寺は、大師最初の伽藍なり。大講堂は、深草の天皇の御願、延命院・四王院は、文徳・朱雀の御願也。法華堂には、大師三代の御経もまします。五台山の香の火、清涼山の土もあり。前唐院には、大師の御脇息・香爐もあり。御影もおはします。其外、弘仁五年の春、大師九州宇佐の宮にまふで、法花の眞文を講じ給ひしかば、大菩薩みづから斉殿をひらき、手づから大師にさづけ給ひしむらさきの袈裟には、光明赫々として、八幡三所もおはします也。天竺の多羅葉、法全和尚の独鈷、焦熱地獄よりとり伝へたる泗濱石も、当山にこそ候へ。しかのみならず、三十番神の守護し給ふ根本の椙の洞、飯室の五つ坊の谷までも、うちならす鐘のひゞきのしけるにこそ、人ありとはしられけれ。」と、三塔の秘事どもを、一々に申ければ、君を始まいらせて、三千衆徒、奇異のおもひをなしにけり。 還御の後も、卿上雲客、信西が宏才の程を感じ申されけるに付て、四方山の御物語ぞありける。「さても双六の賽の目に、一が二おりたるをば畳一といひ、二が二おりたるをば重二といふ。五六をも畳五畳六と申す。これみなかさなる義なるに、四三ばかりを、朱三朱四といふこそ心得ね。これを御尋候へかし。」と申されければ、法皇げにもとて、信西をめされて、此よしを仰下されければ、「さん侯。むかしは同じく重三重四と申けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六をあそばしけるに、重三の目が御用にて、朕がおもふごとくに出たらば、五位になすべしとてあそばしければ、重三おりき。楊貴妃又、重四の目をこふて、我こゝろのごとくにおりたらば、ともに五位になすべしとてうち給ふに、重四出たりき。よ(っ)て天子に俗言なし、同じく五位になさんとてなされけるに何をかしるしにすべきといふに、五位は赤衣をきればとて、重三重四の目に朱をさゝれてより以来、朱三朱四とよぶとこそみえて候へ。」と奏しければ、諸卿みなことはりにやと感じあはれける。 されば凡人ならぬにや、死して後も、手には日記をさゝげ、口には筆をふくみ、炎魔の庁にても、第三の冥官につらなりけると、人の夢にも見たりけり。かゝりし人の今頸を獄門にかけらるゝも、保元の合戦に、宇治の悪左府の御墓所、大和国添上郡河上村、般若野の五三昧なりしを、信西の申状によ(っ)て、勅使をたてゝほりおこし、死骸をむなしくすてゝはづかしめられしが、中二年あ(っ)て、平治元年に我とうづみかくされしか共、つゐにほりおこされて、首をきられけるこそおそろしけれ。昨日の他州のうれへ、今日ほ我身のせめとも、かやうの事をや申べき。
平治物語 - 09 六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事
さる程に、十日の暁、六波羅よりたちしはや馬、切部の宿にて追付たり。清盛、「いかにぞ。」ととひ給へば、「去ぬる九日の夜、三条殿へ夜討入(っ)て、御所みなやきはらひ候ぬ。少納言入道の宿所もやきはらはれ候。これはたゞ右衛門督殿、左馬頭殿をあひかたら(っ)て、当家をほろぼし奉らんとの、はかりことゝこそ承り候へ。」と申せば、清盛、「いそぎ下向すべきが、是までまい(っ)て参詣をとげざらんも無念也。いかゞすべき。」との給へば、左衛門佐重盛、「熊野参詣も現当安穏の御祈請にてこそ候らめ。其上、君逆臣にとりこめられさせ給へるなり。いかでか武臣として、是をすくひ奉らざらん。神は非礼をうけず。何のくるしみか候べき。いそぎ御下向あるべし。」と申されければ、みな此義にぞ同じける。「それに取て、敵に向(っ)て帰洛せんずる、物具の一領もなきをばいかゞすべき。」となげき給ふ所に、筑後守家貞、長櫃を五十合おもげにかゝせたりしを取よせて、五十領のよろひ、五十腰の矢、其外物具どもを取いだして奉る。「弓はいかに。」とのたまへば、大なる竹朸の中に、ふしをついて入たりければ、則五十張の弓をとりいだせり。やがて家貞は、重目結のひたゝれに、洗革の鎧きて、太刀わきはさみ、「大将軍に仕る者はかうこそ用意すれ。」と申せば、侍共も、「あ(っ)ぱれ高名かな。」とぞ感じける。熊野別当湛増が田辺にありけるに、使をたて給へば、兵廿騎奉る。湯浅の権守宗重、卅余騎にてはせまいれば、彼是百余騎に成にけり。 こゝに悪源太三千余騎にて、安部野に待と聞えければ、清盛、「此無勢にて多勢にあふてうたれん事こそ無念なれ。先これより四国へわたり、勢をもよほして、後日に都へいらばや。」とのたまへば、重盛かさねて申されけるは、「それもさにて候へ共、事延引せば、定而当家対治のよし諸国へ院宣・綸旨をなしかくべし。かへ(っ)て朝敵となりなん後は、後悔すとも益あるまじ。多勢をも(っ)て無勢をうつ事、常の事也。あへて弓矢のきずならず。しかれば無勢なりとも、かけ向(っ)て即時にうち死したらんこそ、後代の名もまさるべけれ。何とか思ふ、家貞。」との給へば、筑後守、「六波羅の御一門も、さこそおぼつかなう思召らむ。いそがせ給へ。」と申せば、清盛も然るべしとて、都をさして引かへす。 大将已下、みな浄衣の上によろひを着、「敬礼熊野権現、今度の合戦ことゆへなくうちかたさせ給へ。」と祈請して、引(っ)懸々々うつほどに、和泉と紀伊国とのさかひなる鬼の中山にて、あしげなる馬に乗(っ)たる者、早馬とおぼしくて、もみにもふで出来たり。すは悪源太が使よと、皆人色をうしなふに、源氏の使にはあらずして、六波羅よりのはや馬なり。「さて六はらはいかに。」と問給へば、「きのふ夜半計に出候しまでは、何事も候はず。幡磨中将殿のたのみて御わたり候しを、内裏より宣旨とて、しきなみにめされ候し間、ちからなく十日のくれほどにいだしまいら(っ)させ給て候。」と申ければ、左衛門佐、「無下にいふかひなき事せられたる人々かな。当家をたのみて来れる人を、敵の手へわたすといふ事やある。かくては御方に勢つきなんや。」とぞいかられける。「さても悪源太が阿辺野にまつといふは、いかに。」ととひ給へば、「其儀はかつて候はず。伊勢国住人、伊藤の兵どもこそ、都へいらせ給はゞ、御供つかまつらんとて、三百余騎にて待まいらせ候つれ。」と申せば、「敵の悪源太にてはあらずして、よきみかたごさんなれ。うてや、者ども。」とて、みな人色をなをして、我さきにとすゝむほどに、和泉国大鳥の宮につきもふ。重盛秘蔵せられける飛鹿毛といふ馬に、白鞍をいて、神馬にひき給へば、清盛一首の歌あり。
かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大鳥の神
平治物語 - 10 光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上著の事
内裏には、同十九日に、公卿僉議とて、もよほされけり。勧修寺の左衛門督光頼卿、此ほどは信頼卿振舞過分也とて、不参にておはしけるが、参内してうけたまはらんとて、ことにあざやかなる束帯ひきつくろひ、まきゑの細太刀をおとなしらかにはき給ひ、乳母子の桂の右馬允範能に、膚にはらまききせ、雑色の装束に出たゝせ、「自然の事もあらば、人手にかくな。汝が手にかけて、光頼が頸をばいそぎとれ。」とて、御身ちかくをき、其外きよげなる雑色四五人めし具して、大軍陣を張て、所々の門々をかたく守護しけるを事ともせず、さきたからかにおはせて入給へば、兵共も大きにおそれ奉り、弓をひらめ、矢をそばめてとをし奉る。 紫震殿のうしろをへて、殿上をめぐりて、み給へば、信頼卿一座して、其座の上臈達、皆下にぞつかれたる。光頼卿、「こは不思議の事かな。人はいかにふるまふとも、あれは右衛門督、われは左衛門督なれば、下にはつくまじき物を。」と思はれければ、左大弁宰相長方卿、末座の宰相にておはしけるに、「けふの御座席こそ、よにしどけなうみえ侯へ。」と色代して、しづ<とあゆみ、信頼卿の上にむずとつき給ふ。光頼卿は、信頼のためには母方の伯父なるうへ、大力の剛の人なれば、ことにおそれて見えられけり。右の袖のうへにゐかけられて、ふしめになりて色をうしなはれければ、着座の公卿、あなあさましと見給ふに、光頼卿は、下重のしりひきなをし、衣紋つくろひ、笏とりなをし、気色して、「けふは衛府督の一座するとみえて候。めすに参ぜざらむ者をば、死罪におこなはるべしとやらむ承て参内する所也。抑何事の御定ぞ。」と問けれ共、信頼物もの給はず。著座の公卿も一言の返答なかりければ、まして僉議の沙汰もなし。 程へて光頼卿つい立て、「あしうまい(っ)て候けり。」とて、しづ<とあゆみ出られけり。庭上に充満たる兵ども、是を見奉て、「あ(っ)ぱれ此殿は大剛の人かな。去ぬる十日より、おほくの人出仕し給つれども、右衛門督殿の座上につく人一人もおはしまさざりつるに、しいだしたる事よ。門を入給ふより、聊かも臆したる体もみえ給はず。あ(っ)ぱれ此人を大将として合戦せば、いか計かたのもしからむ。」と申せば、かたはらなる者、「むかし頼光・頼信とて、源氏の名将おはしき。其頼光をうちかへして、光頼と名のり給へば、これも剛にましますぞかし。」といへば、又かたはらより、「など其頼信を打返して、信頼とつき給ふ右衛門督殿は、あれほどに臆病にはおはするぞ。」といへば、「壁に耳、天に口といふ事あり。おそろし<。きかじ。」といひながら、みなしのびわらひにわらひけり。 光頼卿かやうにふるまひ給へ共、いそぎても出られず。殿上の小蔀の前、見参の板たからかにふみならしてたゝれたりけるが、荒海の障子の北、萩の戸のほとりに、弟の別当惟方のおはしけるを、まねきつゝの給ひけるは、「公卿僉議とて、もよほされつる間、参じたれども、承りさだめたる事もなし。誠やらん、光頼も死罪におこなはるべき人数にてあ(ん)なる。つたへうけ給はるごときは、其人みな当時の有職、しかるべき人ども也。其うちにいらん事、甚面目なるべし。さても先日右衛門督が車のしりに乗(っ)て、少納言入道が頸実検のために、神楽岡へむかはれける事はいかに。以外然るべからざる振舞かな。近衛大将・検非違使別当は、他にことなる重職なり。其職にゐながら、人の車のしりにのり給ふ事、先規も未きゝをよばず、当時も大きに恥辱なり。就中頸実検は甚穏便ならず。」との給へば、別当、「それは天気にて候しかば。」とて、赤面せられけり。 光頼卿重て、「こはいかに、勅定なればとて、いかでか存ずる旨を一義申さゞるべき。我らが曩祖勧修寺内大臣・三条右大臣、延喜の聖代につかへてよりこのかた、君すでに十九代、臣又十一代、承りおこなふ事は、皆是徳政なり。一度も悪事にしたがはず。当家はさせる英雄にはあらざれ共、ひとへに有道の臣に伴な(っ)て、讒侫の輩にくみせざりしゆへに、むかしより今にいたるまで、人にさしもどかるゝほどの事はなかりしに、御辺はじめて暴悪の臣にかたらはれて、累家の佳名をうしなはんこと、口おしかるべし。大弐清盛は、熊野参詣をとげずして、切目の宿よりはせのぼるなるが、和泉・紀伊国・伊賀・伊勢の家人等待うけて、はせくはゝり、大勢にてあ(ん)なる。信頼卿がかたらふ所の兵、いくばくならじ。平家の大勢をしよせてせめんには、時刻をやめぐらすべき。もし又火などをうけなば、君もいかでか安穏にわたらせ給ふべき。灰燼の地となりたらんだにも、朝家の御なげきなるべし。いかにいはんや、君臣ともに自然の事もあらば、天下の珍事、王道の滅亡、此時に有べし。右衛門督は、御辺に大小事を申あはするとこそきこゆれ。相構々々、ひまをうかがひ、はかりことをめぐらして、玉体つゝがなくおはしますやうに思案せらるべし。さて主上はいづくにおはしますぞ。」「黒戸の御所に。」「上皇は。」「一品御書所に。」「内侍所は。」「温明殿に。」「剣璽はいづくに。」「よるのおとゞに。」と左衛門督次第に尋給ひければ、別当かうぞこたへられける。又、「朝餉のかたに人音のし、櫛形のあなに人影のしつるは何者ぞ。」との給へば、「それには右衛門督すみ候へば、其かたざまの女房などぞ、かげろひ候らむ。」と申されければ、光頼卿、きゝもあへず、「世の中はいまはかうごさんなれ。主上のわたらせ給ふべき朝餉には、信頼すみ、君をば黒戸の御所にうつしまいらせた(ん)也。末代なれ共、さすが日月はいまだ地におち給はぬ物を、天照太神・正八幡宮は、王法をばいかにまもり給ひぬるぞ。異国にはか様のためしありといへども、我朝にはいまだかくのごときの先蹤をきかず。前代未聞の不思議かな。」とて、のろ<しげにはゞかる所もなくくどき給へば、惟方は人もやきくらんと、世にすさまじげにてたゝれたれ共、かつはかなしみて、「われいかなる宿業によ(っ)て、かゝる世にむまれ相、うき事をのみ見きくらん。むかしの許由にあらね共、今の内裏のあり様を見きかん輩は、耳をも目をもあらひぬべくこそ侍れ。」とて、上の衣の袖しぼるばかりなかれけり。信頼の座上に著せられし時は、さしもゆゝしくみえ給ひしが、君の御事をかなしみて、打しほれてぞ出給ひける。 誠に漢朝の許由は、富貴の事をきゝてだに、心にいとひ思ふが故に、あしき事をきゝたりとて耳をあらひき。いかにいはんや、此光頼は、朝家の諌臣として、悪逆無道の振舞を見聞給ひて、耳目をもあらひぬべく思ひ給ふぞことはりなる。たとへば、帝尭天子の位におはします事七十年、御としすでに老て、誰にか天下をゆづるべきとて、賢者を御尋ありけるに、大臣みなへつらひて、「皇子さいはひにおはします。丹朱にこそつがしめ給はめ。」と申せば、尭ののたまはく、「天下はこれ一人の天下にあらず。何をも(っ)てか太子なればとて、非機にさづけて朝民をくるしましむべき。丹朱をはじめて九人の皇子、ひとりとして其器にたらず。」とて、あまねく賢人をたづね給ふに、箕山の中に許由といふ者、身をおさめてかくれゐたりときこしめして、勅使をも(っ)て、御位をゆづるべき由を仰られたりけるに、許由つゐに勅答をだに申さず。剰富貴尊栄の事をきいて、けがれたりとて、頴川の水にて耳をあらふ所に、同じ山中に居山せる巣父と云賢人、牛をひいて此川に来り水をのまんとしけるが、耳をあらふをみてゆへをとふに、其趣をかたる。巣父がいはく、「賢人の世をのがるゝは、廻生木のごとしといへり。彼木はふかきたに、けはしき所に立たれば、下よりも道なし。上よりも便なし。されば大家の梁にもいたらず、工の是をはかる事なし。汝世をのがれんと思はゞ、猶深山にこそこもるべきに、なんぞ牛馬の栖にまじは(っ)て、例よりもにご(っ)て見えつるか、けがれにけり。然れば牛にもかはじ。」とて、むなしくひいてかへりけるなり。 信頼卿は、小袖にあかき大口、冠に巾子紙いれてき給へり。ひとへに天子の御振舞のごとくなり。大弐清盛は、まづ稲荷の社にまいり、各杉の枝をおりて、鎧の袖にさして、六波羅へぞつきにける。大内には、定て今夜やよせんずらんとて、かぶとの緒をしめてまちあかす。
平治物語 - 11 信西の子息遠流に宥めらるる事
明れば廿日、殿上にて公卿僉議あるべしとて、大殿・関白・太政大臣師賢・左大臣伊通公已下、各参内し給へり。是は少納言入道の子息、僧俗十二人の罪、各定申されんためなり。左大臣伊通公のなだめ申されけるによ(っ)て、死罪一等を減じて、遠流に処せらる。俗は位記をとゞめられ、僧は度縁を取て還俗せさせらる。 まづ新宰相俊憲は出雲国、幡磨中将成憲は下野国、右中弁貞憲隠岐国、美濃少将長憲阿波国、信濃守惟憲は安房国、法眼浄憲は丹波国、法橋寛敏は上総国、大法師勝憲は安芸国、澄憲は信濃国、憲耀は陸奥国、覚憲は伊与国、明遍は越後国とぞ定られける。 彼俊憲は、鳥羽院より、春生二青花中一と云勅題を賜は(っ)て、「悲二清濁を一駒は、嘶二十年の風に一、香れる上林の花、鳳成二肝心露一。」とかゝれたる手跡又妙にして、澆季に是をつたへけり。澄憲の説法には、龍神も感に乗じ、甘露の雨をふらし、明遍の菩提心をいのりし夢のまくらには、宝蓮華下てうつゝにあり。すべて此一門にむすぼらるゝ人は、あやしの女房にいたるまで、才智人にこえたり。
平治物語 - 12 院の御所仁和寺に御幸の事
同廿三日、又大内の兵ども、六はらよりよするとてさはぎけれ共、其義もなし。惣じて去ぬる十日より、日々夜々に、六波羅には内裏よりよするとて、ひしめき、大内には六波羅よりよするとて兵ども右往左往にはせちがひ、源平両家の軍兵等、京白河に往還す。としはすでに暮なんとすれ共、歳末年始のいとなみにも及ばず、たゞ合戦の評定ばかりなり。 廿六日の夜深て、蔵人右少弁成頼、一品の御書所へ参て、「君はいかゞおぼしめされ候。世間は今夜のあけぬさきにみだるべきにて候。経宗・惟方は申入る旨は候はずや。行幸も他所へならせ給ひぬ。いそぎいづ方へも御幸ならせおはしませ。」と奏せられければ、上皇おどろかせ給ひて、「仁和寺のかたへこそおぼしめしたゝめ。」とて、殿上人の体に御姿をやつさせ給て、まぎれ出させおはします。上西門の前にて、北野の方をふしおがませ給て、それより御馬にめされけり。供奉の卿相雲客一人なければ、御馬にまかせて御幸なる。未夜半の事なれば、ふしまちの月もさしいでず、北山おろしのおとさえて、そらかきくもりふる雪に、御幸の道もみえわかず。木草の風にそよぐを、きこしめしても、逆徒の追奉るかと、御肝をぞ消させ給ける。さてこそ一とせ讃岐院の如意山に御幸なりける事までも、おぼしめし出させ給ひけれ。それは敗軍なれども、家弘・光弘以下さぶらひて、供奉しければたのもしくぞおぼしめしける。これはしかるべき武士一人も候はねば、御心ぼそさのあまりに、一首はかうぞおぼしめしつゞけける。
なげきにはいかなる花のさくやらん身になりてこそ思ひしらるれ
はか<”しく仰合らるべき人もなきまゝに、御心中に様々の御願をぞたてさせ給ひける。世しづま(っ)て後、日吉社へ御幸なりたりしも、其時の御立願とぞきこえし。とかくして仁和寺につかせ給ふ。此由仰られしかば、御室大きに御よろこびあ(っ)て、御座しつらひ入まいらせて、供御御すゝめなど、かひ<”しくもてなしまいらせ給ひける。保元に崇徳院のいらせ給ひしをば、寛遍法務が坊にうつしまいらせて、さまでの御心ざしもなかりき。崇徳院は鳥羽第一の御子、此上皇は第四、御室は第五の宮にておはしませば、いづれもおなじ御兄の御事なれども、さばかりいつき申させ給ひ、聊かの御つゝがもわたらせ給はぬ御運のほどこそめでたけれと、人みな申けるとかや。
平治物語 - 13 主上六波羅へ行幸の事
主上は北の陣に御車をたてゝ、女房のかざりをめして、御かづらを奉る。同じく御宝物どもわたし奉らんとて、内侍所の御唐櫃も、大床迄出したりけるを、鎌田が郎等怪しめ奉て、とゞめまいらせけるを、伏見源中納言師仲卿に申あはせて、まづ坊門の局の坊城の宿所へぞうつし奉りける。中宮も主上と一御車にぞめされける。別当惟方・新大納言経宗、なをしに柏はさみして供奉し、藻壁門より行幸なし奉れば、此門をば金子・平山かためたり。家忠、「いかなる御車ぞ。」と申せば、別当、「上臈女房たちの出させ給ふなり。惟方があるぞ。別の子細あるまじ。」との給へ共、金子なをあやしみて、弓のはずにてすだれかきあげ、松明ふり入て見奉れば、二条院御在位のはじめ、御歳十七に成給ふうへ、龍顔もとよりうつくしくおはしますに、はなやかなる御衣はめされたり、まことにみめもまよふ計の女房にみえさせ給。中宮はおはします、いかでか見とがめ奉らむ。ゆへなくとをしまいらせけり。清盛の郎等、伊藤武者景綱、黒糸おどしの腹巻の上に、小張きて雑色になる。舘の太郎貞康は、黒革の腹巻のうへに、牛飼の装束して御車をつかまつる。 上東門をからりとやりいだす程こそあれ、土御門をとぶがごとくに行幸成。左衛門佐重盛・三河守頼盛・常陸守経盛、三百余騎にて、土御門東洞院にまちうけ奉り、御車の前後を守護して、六波羅へこそ入奉りけれ。事ゆへなく行幸なりてければ、平家の人々、いさみよろこぶ事かぎりなし。やがて蔵人右少弁成頼をも(っ)て、「六波羅を皇居となされたり。朝敵ならじと思はん輩は、いそぎはせ参ぜられよ。」とふれられければ、大殿・関白殿・太政大臣・左大臣・内大臣以下、公卿殿上人、われも<とまいられけり。内裏へと心ざして、はせまいる兵ども、此由をきゝて、我さきにといそぎまいりければ、六はらの門前には、馬車のたち所もなくせきあひたるに、色節の下部に、よろふたる兵あひまじは(っ)て、雲霞のごとくに河原おもてまでみち<たり。清盛はこれをみて、家門の繁昌弓箭の面目とよろこび給へば、信頼卿は夢にもしらず。
平治物語 - 14 源氏勢汰への事
いつもの沈酔なれば、かかる一大事を思ひたちながら、ゑひふして、女房どもに、「こゝうて。かしこさすれ。」とて、ね給ひけるに、越後中将成親、廿七日のあけぼのにはしり来り、「いかにかくてはおはするぞ。行幸は他所へなり候ぬ。今はのこりとゞまる卿相雲客一人も候はざ(ん)也。ひとへに御運のきはめとこそおぼえ候へ。」とつげられければ、信頼、「よもさはあらじ物を。経宗・惟方にかたく申ふくめたれば。」との給へば、「其人共のはからひとこそきこえ候へ。」と申されければ、いそぎ一品御書所へまいられたれども、上皇もおはしまさず。「まさしく暁まで御をとなひのありつる物を。」との給へども、おはしまさず。上皇御出のとき、北面の侍、平左衛門尉泰頼は、骨ある者なれば、めして御寝所にをかせ給ひけるが、御まなびをたがはず申ける也。はるかにのびさせ給ひぬらむとおぼえし時、御寝所を三度おがみて出ける也。「かゝる不思議なかりせば、泰頼ほどの下臈がいかでか御寝所へはまいるべき。」とぞ申ける。 黒戸の御所へ参られけれども、主上もわたらせ給はず。手を打てはしりかへり、「此事披露なし給ひそ。」と中将の耳にさゝやき給ふぞ哀なる。さて別当を尋らるゝもなく、新大納言もおはせねば、此者どもにだしぬかれにけりとて、大の男のふとりせめたるが、いかりにいかりて、おどりあがり<、陸梁せられけれども、板敷のみひゞきて、おどり出せる事もなし。 別当惟方は、元来信頼卿のしたしみにて、契約ふかかりしかども、一日舎兄左衛門督の諌言、きもにそみておもはれければ、かやうに主上をぬすみいだしまいらせられけり。此人は、生得勢ちいさくおはしければ、小別当とぞ人申ける。それに信頼卿にくみして、院・内ををしこめ奉る中媒をなし、今又ぬすみいだしまいらする中媒せられければ、時の人、中小別当とぞいひける。大宮左大臣伊通公は、「此中は、中媒の中にてはあらじ。忠臣の忠にてぞあるらん。光頼の諌によ(っ)て、たちまちにあやま(っ)てあらため、賢者の余薫をも(っ)て、忠臣のふるまひをなせば。」とぞの給ひける。 悪源太義平、賀茂へまいりけるが、道にてこのよしをきゝ、いそぎはせかへり、義朝にむか(っ)て、「行幸は六はらへ、御幸は仁和寺へと承候はいかに。」と申されければ、「されば只今此よしきゝつれども、右衛門督のかたよりも、未なに共つげしらせず。さりながら、源氏のならひ、心がはりやあるべき。こもる勢をしるせや。」とて、内裏の勢をぞしるされける。 大将軍には悪右衛門督信頼・子息新侍従信親・信頼の舎兄兵部権大輔基家・民部権少輔基通・弟の尾張少将信俊、その外、伏見源中納言師仲・越後中将成親・治部卿兼通・伊与前司信員・壱岐守貞知・但馬守有房・兵庫頭頼政・出雲前司光泰・伊賀守光基・河内守季実・子息左衛門尉季盛、一門には、まづ左馬頭義朝・嫡子鎌倉悪源太義平・次男中宮大夫進朝長・三男右兵衛佐頼朝・義朝の伯父陸奥六郎義隆・義朝の弟新五十郎義盛・従子佐渡式部大夫重盛・平賀四郎義宣、郎等には鎌田兵衛政清・後藤兵衛真基・佐々木源三季義、熱田大宮司太郎は、義朝にはこじうとなれば、我身はのぼらね共、家子・郎等さしのぼす。三河国住人には、重原兵衛父子、相模国には、波多野次郎義通・荒次郎義澄・山内須藤刑部尉俊通・其子瀧口俊綱、武蔵国には、長井斉藤別当実盛・岡部六弥大忠澄・猪俣小平六範綱・熊谷次郎真実・平山武者所末重・金子十郎家忠・足立右馬允遠元・上総介八郎弘常、常陸国には、関次郎時貞、上野国には、大胡・大室・大類太郎、信濃国には、片切小八郎大夫景重・木曾中太・弥中太・常葉井・榑・強戸次郎、甲斐国には、井澤四郎信景をはじめとして、宗徒の兵二百人、あひしたがふ軍兵二千余騎とぞしるされける。 六波羅の官軍よすると聞えければ、人々物具せられけり。惑右衛門督信頼は、赤地のにしきのひたゝれに、むらさきすそごの鎧に、菊のすそ金物を打たるに、金作の太刀をはき、白星の甲の鍬形う(っ)たるを猪頸にきなし、紫震殿の額の間にしりをかけてぞゐ給ひける。生年廿七、大の男のみめよきが、美麗の武具はき給ひたり、其心こそしらね共、あ(っ)ぱれ大将やとぞみえたりける。馬は奥州の基衡が、六部一の馬とて秘蔵しけるを、院へまいらせけるなり。くろき馬のふとくたくましきが、八寸あまりなるに、いかけぢの金伏輪のくらをいて、左近の桜の木のもとに、東がしらに引(っ)立たり。越後中将成親は、紺地のにしきのひたゝれに、萌黄匂のよろひに、鴛のすそ金物打たるに、長伏輪の太刀をはき、龍頭の冑をぞきける。白蘆毛なる馬に、白伏輪の鞍をいて、信頼卿の馬の南に、同かしらにひ(っ)たてたり。成親今年廿四歳、容儀ことがら人にすぐれてぞ見えられける。 武士の大将左馬頭義朝は、赤地のにしきのひたゝれに、黒糸縅のよろひに、鍬形う(っ)たる五枚甲の緒をしめ、いか物作の太刀をはき、黒羽の失負、節巻の弓も(っ)て、黒葦毛なる馬にくろ鞍をかせて、日花門にぞひ(っ)たてたる。年卅七、眼ざし・つらたましゐ、自余の人にはかはりたり。嫡子悪源太義平は、生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八う(っ)て付たる鎧をきて、高角のかぶとのをゝしめ、石切と云太刀をはき、石打の矢負、滋藤の弓も(っ)て、鹿毛なる馬のはやり切(っ)たるに、鏡くらをかせて、父の馬と同かしらにひ(っ)たてたり。次男中宮大夫進朝長は十六歳、朽葉のひたゝれに、沢潟とて、沢おどしにしたる重代のよろひに、星白の甲を着、うすみどりといふたちをはき、しら篦に白鳥の羽にて作だる矢負、所藤の弓も(っ)て、あしげなる馬に白覆輪のくらをいて、兄の馬にひ(っ)そへてこそ立たりけれ。三男右兵衛佐頼朝は十三、紺の直垂に源太が産衣といふ鎧を着、星白の甲のをゝしめ、髭切といふ太刀をはき、十二さしたる染羽の失負、滋藤の弓も(っ)て、栗毛なる馬に柏みゝづくすりたる鞍をいて、是も一所にひ(っ)たてたり。 此産衣・髭切は、源氏の重代の武具の中に、ことに秘蔵の重宝なり。八幡殿のおさな名を源太とぞ申ける。二歳のとき、院より、「まいらせよ、御覧ぜん。」と仰を蒙り給て、わざと鎧をおどし、袖にすへてぞ見参に入られける。さてこそ源太が産衣とは付られけれ。胸板に、天照大神・正八幡大菩薩と鋳つけまいらせ、左右の袖には、藤の花のさきかゝりたる様をおどせる也。さて鬚切と申は、八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作也。昔より嫡々に相伝せしかば、悪源太こそつたへ給べきに、三男なれ共、頼朝さづかり給けるは、つゐに源氏の大将となり給ふべきしるし也。兵衛佐、父義朝・兄義平のかたをみまはして、「平家やはや向ひ候らん。人にさきをせられむより、先六波羅へよせ候はん。」と申されけるは、抜郡にぞきこえし。鳳凰は卵の中にして、超境のいきほひあり。龍の子はちいさしといへ共、よく雨をふらすとも、か様の事をや申べき。 比は平治元年十二月廿七日、辰の刻計の事なるに、昨日の雪きえのこり、庭上は玉をしくがごとくなるに、朝日の光映徹して、物具の金物かゝやきわたりて、殊に優にぞみえたりける。凡其事柄、天竺・震旦はそもしらず、日本我朝にをいては、義朝の一類にまさるべき武士は、あるべしとも見えざりけり。然に頼政・光泰・光基も、心がはりして見えければ、義朝うたばやと思はれけれども、大事の前の小事、敵に利をつくるはしなれば、思ひとゞまり給けり。義朝の給ひけるは、「今度の合戦若打負なば、東国へ馳下り、八ヶ国の家人をもよほしあつめて、重て都にせめ上り、平氏の一類をほろぼさん事、何の子細か有べき。」と申されしかば、此人々は皆、保元におほくの弟どもをほろぼすのみならず、正しく父の首をはねし人なれば、しらず是や運のきはめならんと、内々申されけるが、君六はらに行幸なりぬときこえし後は、朝敵と成なん事をかなしみて、つゐにはみな心がはりせられけるなり。されば頼政、平家にくはは(っ)て後、六はらよりあら手とてかけ出けるに、義朝、「名をば源兵庫頭とよばれながら、云かひなく、伊勢平氏につき給ふものかな。御辺が二心によ(っ)て、当家の弓矢の疵つきぬるこそ口おしけれ。」といひかけられし返事に、「累代弓矢の芸をうしなはじと十善の君につき奉る。全二心にあらず。御辺が信頼といふ日本一の不覚仁に同意して、あやまりをあらためぬこそ、まことに当家の恥辱なれ。」と申されける。
平治物語 - 15 待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事
六波羅の皇居には、公卿僉議あ(っ)て清盛をめされけり。紺の直垂に黒糸縅の腹巻に、左右の籠手をさして、おりゑぼし引(っ)たてゝ大床にかしこまる。頭中将実国をも(っ)て仰下されけるは、「王事脆事なければ、逆臣ほろびんことうたがひなし。但たま<新造の内裏也。もし回禄あらば、朝家の御大事たるべし。官軍いつは(っ)て引しりぞかば、凶徒さだめて進いでん歟。しからば官軍を入かへて、内裏を守護せさせ、火災なきやうに思慮あるべし。」と仰下されければ、清盛かしこま(っ)て、「朝敵たるうへは、逆徒の誅戮は掌の中に候間、時刻をめぐらすべからず。然らば定て狼籍出来せんか。火失なからん条こそ、難義の勅定にて候へ。さりながら、苑蠡が呉国をくつがへし、張艮が項羽をほろぼせしも、みな智謀のいたす所なれば、涯分武略をめぐらして、金闕無為なるやうに成敗仕るべし。」と奏していでられけり。 主上御座あれば、皇居の御かために清盛をばとゞめらる。大内へ向ふ人々には、大将軍は左衛門佐重盛・三河守頼盛・淡路守教盛、侍には筑後守家貞・子息左衛門尉貞能・主馬判官盛国・子息右衛門尉盛俊・与三左衛門尉景安・新藤左衛門家泰・難波次郎経遠・同三郎経房・妹尾太郎兼安・伊藤武者景綱・館太郎貞泰・同十郎貞景を始として、都合其勢三千余騎、六波羅をうち出て、賀茂河をはせわたし、西の河原にひかへたり。 左衛門佐重盛は生年廿三、今日のいくさの大将なれば、赤地のにしきの直垂に、櫨の匂ひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)たるに、龍頭の冑の緒をしめて、小烏といふ太刀をはき、切府の失負、滋藤の弓も(っ)て、黄鴾毛なる馬に、柳桜摺(っ)たる貝鞍をかせて乗給へり。重盛の給ひけるは、「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相應せり。敵をたいらげん事、何のうたがひかあるべき。誰か爰に樊噲・張良がいさみをなさざらん。」とて、三千余騎を三手にわけて、近衛・中御門・大炊御門より、大宮面へかけ出て、陽明・待賢・郁芳門へをしよせたり。 大内には、三方の門をばさしかため、東面の陽明・待賢・郁芳門をばひらかれたり。昭明・建礼の脇の小門をもともにひらきて、大庭には馬どもおほく引(っ)たてたり。梅坪・桐坪・竹のつぼ・籬がつぼ、紫震殿の前後、東光殿のわきのつぼまで、兵ひしとなみゐたり。これ皆源氏の勢なれば、白旗廿余流う(っ)たてたり。大宮面には、平家の赤旗卅余ながれさしあげて、いさみすゝめる三千余騎、一度に時をどつとつくりければ、大内もひゞきわた(っ)ておびたゝし。時の声におどろきて、只今までゆゝしくみえられつる信頼卿、顔色かは(っ)て草の葉のごとくにて、南階をおりられけるが、膝ふるひており兼たり。人なみ<に馬にのらんと引よせさせたれ共、ふとりせめたる大の男の、大鎧はきたり、馬は大きなり、乗わづらふうへ、主の心にも似もにず、はやり切(っ)たる逸物なれば、つと、いでん<としけるを、舎人七八人寄(っ)て馬をかゝへたり。はなたば天へもとびぬべし。穆王八疋の天馬の駒も、かくやと覚ゆる計にて、のりかね給ふ所を、侍二人つとより、「とくめし候へ。」とてをしあげたり。あまりにやをしたりけむ、弓手のかたへ乗こして、伏ざまにどうどおつ。いそぎ引おこしてみれば、顔にいさごひしとつき、鼻血ながれて見ぐるしかりけり。義朝此体をみて、日比は大将とておそれ給ひけるが、はたとにらみて、「あの信頼と云不覚仁は臆したるな。」とて、日花門を打出て、郁芳門へむかはれければ、信頼も鼻血をしのごひ、とかうして馬にかきのせられ、待賢門へむかはれけるが、物の用にあふべし共見えざりけり。 左衛門佐重盛、五百騎をば大宮面にのこしをき、五百騎にてをしよせて、よばゝり給ひけるは、「此門の大将軍は信頼卿と見るはひがめ歟。かう申は桓武天皇の苗裔、太宰大弐清盛が嫡子、左衛衛門佐重盛、生年廿三。」と名乗懸ければ、信頼返事にも及ばず、「それふせげ、侍共。」とて引しりぞく。大将の引給ふ間、防侍一人もなし。我さきにとにげければ、重盛弥いさみて、大庭の椋木の下迄せめ付たり。義朝是をみて、「悪源太はなきか。信頼といふ大臆病人が、待賢門をはや破られつるぞや。あの敵追出せ。」との給ければ、「承候。」とてかけられけり。つゞく兵には、鎌田兵衛・後藤兵衛・佐々木源三・波多野次郎・三浦荒次郎・須藤形部・長井斉藤別当・岡部六弥太・猪俣小平六・熊谷次郎・平山武者所・金子十郎・足立右馬允・上総介八郎・関次郎・片切小八郎大夫、已上十七騎、くつばみをならべて馳向ひ、大音声をあげて、「此手の大将は誰人ぞ。名のれきかん。かう申は清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也。生年十五のとし、武蔵国大蔵の軍の大将として、伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。とし積(っ)て十九歳、見参せん。」とて、五百騎の眞中へ破(っ)ていり、西より東へ追まくり、北より南へ追まはし、たてさま横さま十文字に、敵をさ(っ)とけちらして、「葉武者どもにめなかけそ。大将軍を組でうて。櫨のにほひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)て、黄月毛の馬に乗(っ)たるこそ重盛よ。をしならべて組でおち、手取にせよ。」と下知すれば、大将をくませじと、ふせぐ平家の侍ども、与三左衛門・新藤左衛門を始として、百騎ばかりのうちにぞへだゝりける。悪源太を始として、十七騎の兵ども、大将軍に目をかけて、大庭の椋木を中にたてて、左近の櫻、右近の橘を七八度まで追まはして、くまん<とぞ揉だりける。十七騎に懸立られて、五百余騎かなはじとや思ひけん、大宮面へさ(っ)と引。大将左衛門佐は弓杖ついて、馬の息をつかせ給ふ所に、筑後守つと参て、「曩租平将軍の、ふたゝび生かはり給へる君かな。」と、向様にほめ奉れば、今一度かけて家貞にみせんとや思はれけん、前の五百騎をばとゞめをきて、荒手五百騎を相具して、又大庭の椋の木の本までせめよせたり。 又悪源太かけむかひ、見廻していひけるは、「只今向たるは、皆あら手の兵なり。但大将は、もとの大将重盛ぞ。已前こそもらすとも、今度にをひてはあますまじ。押ならべて組でとれ、兵共。」と下知すれば、いさみにいさみたる十七騎、われさきにと進ければ、今度は難波次郎・同三郎・妹尾太郎・伊藤武者を始として、百余騎、中にへだてたるに事ともせず。悪源太弓をば小脇にかいはさみ、鐙ふんばりつい立あがり、左右の手をあげ、「幸に義平源氏の嫡々なり。御辺も平家の嫡々也。敵にはたれかきらはん。よれや。くまん。」といふまゝに、さきのごとく大庭の椋の木のもとを追まはして、五六度までこそ揉だりけれ。重盛くみぬべうもなくやおもはれけん、又大宮面へひいていづ。悪源太二度まで敵を追まくり、弓杖ついて馬にいきをつかせけるに、義朝是をみて、須藤瀧口をも(っ)て、「汝が不覚にふせげばこそ、敵度々懸いるらめ。あれすみやかに追出せ。」といひつかはされければ、俊綱はせて此由をいふに、「承候。すゝめや、者共。」とて、色もかはらぬ十七騎、大宮面にかけ出て、敵五百余騎が中へ、面もふらず破(っ)ている。そびき立(っ)たる勢なれば、馬のあしをたてかねて、大宮をくだりに、二条を東へひきければ、「我子ながらも義平は、能かけたる者かな。あ(っ)かけたり。」とぞほめられける。 大将重盛・与三左衛門景安・新藤左衛門家泰・主従三騎は懸はなれ、二条を東へひかれければ、悪源太、鎌田にき(っ)と見合て、「爰におつるは大将とこそ見れ、返せやかへせ。」とて追懸たり。すでに堀川にて追(っ)つめけるが、弓手のかたに材木おほく充満たるに、悪源太の乗給へる馬、かたなつけの駒にて、材木にやおどろきけん、妻手のかたへけしとんで、小膝を折てどうどふす。鎌田兵衛延さじと、十三束取(っ)てつがひ、能引てひやうどいる。重盛の射向の袖に、はたとあた(っ)てとびかへる。やがて二の矢を射たりければ、をしつけにちやうど当(っ)て、のかつきくだけておどりかへれり。悪源太、「是はきこゆる唐皮といふ鎧ごさんなれ。馬を射ておちん所をうて。」と下知せられければ、又能引て追様を、はずのかくるゝ程いこうだり。馬は屏風をかへすごとくたふるれば、材木のうへにはねおとされ、冑もおちて大わらはになり給ふ。鎌田堀川をはせこして、重盛にくまんとおちあふたり。重盛近付てはかなはじとや思はれけん、弓のはずにて鎌田が甲の鉢をちやうどつく。つかれてゆらゆる間に、冑をと(っ)てうちきつゝ、緒をつよくこそしめられけれ。 与三左衛門馳よせて、中に隔てゝ申けるは、「漢の紀信は高租の命にかは(っ)て、栄陽のかこみを出だし、つゐに天下をたもたせき。主はづかしめらるゝ時、臣死すと云にあらずや。景安こゝにあり。よれや。くまむ。」といふまゝに、鎌田兵衛と引(っ)くんで、取(っ)てをさへける処に、悪源太馬引おこし、是も堀川をはせこして、重盛にくまんと飛でかゝりけるが、鎌田をやたすくる、大将をやうたむと思案しけれ共、大将には、又もよせあふべし、政家をうたせては叶はじと思ひ、与三左衛門におちあふて、三刀さして頸をとる。重盛は頼み切(っ)たる景安うたせて、命いきても何かせんとて、既に悪源太とくまんとせられけるを、新藤左衛門はせ来り、「家泰が候はざらん所にてこそ、大将の御いのちをば捨給ふべけれ。延させ給へ。」とて、我馬をひきむけ、中にへだてゝ悪源太とむずとくむ。政家は重盛にくまんとしけるが、主を打せては叶はじと思ひければ、新藤左衛門におちかさな(っ)て、取(っ)てをさへて、頸をかく。此ひまに、重盛は虎口をのがれて、六波羅迄ぞおちられける。二人の侍なからましかば、たすかりがたき命也。十二月廿七日の巳の刻計の事なるに、一村雨さ(っ)として、風ははげしく吹たりけり。物具氷てすべりけり。鎌田が鞍の前輪にも、つららゐたれば乗かねけり。悪源太是を見給ふて、「手がたを付てのれや。」との給ければ、打物ぬいて、つぶつぶと手形を切てぞ乗(っ)たりける。鞍に手がたをつくる事、此時よりぞはじまれる。 三河守頼盛は、郁芳門へ押よせて、「此陣の大将は誰人ぞ。名のられ候へ。」との給へば、「此手の大将は、清和天皇九代の後胤、左馬頭源朝臣義朝。」と名乗(っ)て、「悪源太は二度まで敵を追出すぞかし。すゝめや、若者。」との給へば、中宮大夫進・右兵衛佐・新宮十郎・平賀四郎・佐渡式部大夫重成を姶として、我も<と懸られけり。右兵衛佐頼朝は、「生年十三。」と名乗(っ)て、敵二騎射おとし、一騎に手負せて、殊にすゝんでかけられけり。左馬頭の給ひけるは、「何といへ共、わかもの共の軍するは、まばらにみゆるぞ。義朝かけてみせん。」とて、眞前にすゝまれければ、一人当千の兵共、うちかこみてぞたゝかひける。 頼盛しばしはさゝへられけるが、門より外へ追出さる。義朝つゞいてせめたゝかへば、大宮おもてへひきにけり。平家馬の気をつがせてかけ入ければ、源氏大内へ引こもり、源氏又馬の足をやすめて懸出れば、平家又大宮面へ引退く。平家は赤旗・赤じるし、日に映じてかゞやけり。源氏は大旗・腰小旗、みなをしなべて白かりけるが、はげしき風にふきみだされ、いさみすゝめるありさまは、まことにすさまじくこそおぼえけれ。源平の兵共、互に命をおしまねば、まのあたりうたるれどもかへり見ず、主のさきにすゝまんと、こゝを前途とたゝかふたり。 悪源太、左衛門佐をばうちもらし、鎌田に向(っ)ての給ひけるは、「郁芳門の軍はいかゞあらん。いざや頭殿の御さきつかまつらん。」とて、打具してはせ来り、又眞前にぞすゝまれける。爰に鎌田が下人に、八町次郎とて、大力の剛の者、早走の手きゝあり。「馬にてこそ具すべけれ共、中々かちだちよかるべし。高名せよ。」といひければ、一とせも腹巻に小具足さしかためて、眞前に進みたりけるが、敵の馬武者のはるかにさき立て落けるを、八町が内に追攻て、取て引おろして、頸を取たりければ、それよりして八町次郎とぞいひける。されば又此者、三河守のきこゆる早走の名馬に、両鐙をあはせて懸られけるに、すこしもおとらず追付て、冑の手返に熊手をうちかけん<と、つゞひてはしりければ、頼盛も甲を打かたぶけ<、あひしらはれければ、五六度はかけはづしけるが、つゐに手返にうちかけて、ゑいやとひけば、三河守既にひきおとされぬべう見えられけるが、帯たる太刀を引ぬいてしとゝきる。熊手の柄を手本二尺計をきて、つんど切(っ)ておとされければ、八町次郎のけにたふれてころびけり。京わらんべ是をみて、「あ(っ)ぱれ太刀や。あ(っ)、きれたり。三河殿もよ(っ)きりたり。八町次郎もよ(っ)懸たり。」とぞ感じける。頼盛は冑に熊手を切かけながら、とりもすてず、見もかへらず、三条を東へ、高倉を下りに、五条を東へ、六はらまで、からめかして落られけるは、中に、ゆうにぞみえたりける。名誉の抜丸なれば、よくきれけるはことはり也。 此太刀を抜丸といふゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。此太刀まくらのうへに立たりけるが、みづからするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池にしづむ。太刀もさやにかへりしかば、蛇又出てのまんとす。太刀又ぬけて大蛇を追て、他の汀に立て(ん)げり。忠盛是をみ給てこそ、抜丸とはつけられけれ。当腹の愛子によ(っ)て、頼盛是を相伝し給ふ故に、清盛と不快なりけるとぞきこえし。伯耆国大原の眞守が作と云々。 三河守をおとさんとふぜきたゝかふ侍には、大監物・小監物・藤左衛門尉助綱、兵藤内が子、藤内太郎家継を始として、われも<と戦けり。兵藤内家俊は、もとより大臆病のおぼえとりたる者也けるが、ちからなく大勢の中にけたてられて、心ならずはせゆきけるが、馬を射させて幸とや思ひけん、小屋の内へにげいりぬ。其子の家継は、父には似ず大剛の者にて、散々にたゝかひ、敵あまた討取て引けるが、父が馬は射られてふしぬ、主はなし、いけどられにけりと無念なれば、家継いきてなにかせんとて、只一人取(っ)て返し、おほくの敵をきりふせて後、ある兵と引(っ)組でおち、指ちがへて死けるを、家俊まのあたり小屋のうちにて見ゐたりければ、心うくかなしくて、はしりいでんとは思へども、戦場なればおそろしくて、子うたるゝを見つがざりけり。後日に六波羅へまいりけるをみて、にくまぬ者ぞなかりける。 平家は勅定にまかせて、みな六はらへ引返す。源氏は謀ともしらざりけるにや、大内をば打捨て、追懸々々、小路々々に攻たゝかふ。其間に官軍を入かへて、門々をかたくふせぎければ、源氏内裏へはいりえずして、そゞろに六波羅へぞよせたりける。斉藤別当と後藤兵衛とは、おほくの敵を追かへして、東三条辺にひかへたるに、武者二騎はせ来り。実盛まづ一騎の武者に懸あはせ、「わぎみ、たそ。」と問ば、「安芸国住人、東条の五郎。」と名のる所を、能引て射おとし、其首を取て、「これはいかに、後藤殿。」といへば、眞基も、一騎の武者にはせむかひ、「御辺は誰そ。」ととへば、「讃岐国の住人、大木戸の八郎。」と名のりもはてねば、しや頸のほね射ておとし、其首取て、「是見給へ、斉藤殿。頭殿の見参にやいるゝ、すてやする。」といひければ、「今朝より乗つからかしたる馬に、なま頸つけて何かせん。いざすてん。」といひけるが、二条堀川まではせ来る。材木のうへに二の首をさしをいて、軍みける在地の者どもにあづけて、「此頸うしなふべからず。」といひふくめて、かけいづれば、失ひてはあしかりなんとて、日くるゝまでふるひ<まもりける也。 右衛門督信頼は、今朝待賢門を破られて後は、いくさの事はおもひもよらず、ひまをもとめておちん<とぞせられける。義朝かけ出て後は、大裏にもしのびずして、御方の勢の跡に付て、おづ<河原まで出られけるが、六波羅へはよせずして、引ちがへて、河原をのぼりにおちられけり。金王丸是をみて、「右衛門督殿こそ落させ給へ。追懸まいらせん。」と申せば、義朝、「たゞをけ。あれ体の不覚人あれば、中々いくさがせられぬぞ。」とて、河原をくだりによせられけり。
平治物語 - 16 義朝六波羅に寄せらるる事並びに頼政心替りの事付けたり漢楚戦ひの事
六はらには、五条の橋をこぼちよせ、かいだてにかいてまつ所に、源氏則をしよせて、時を咄とつくりければ、清盛、時のこゑにおどろき、物具をせられけるが、甲を取てさかさまにき給へば、侍ども、 「御冑さかさまに候。」と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ、「主上わたらせ給へば、敵の方へむかはゞ、君をうしろになしまいらせんが恐なる間、さかさまにはきるぞかし。」との給へば、重盛は、「何とのたまへども、臆して見えられたるな。打立、者ども。」とて、五百余騎にてかけむかはる。 兵庫頭頼政は、三百余騎にて六条河原にひかへたり。悪源太、鎌田をめして、「あれにひかへたるは頼政か。」「さん候。」「にくい振舞かな。我らはうちまけば平家にくみせんと、時宜をはかるとおぼゆるぞ。いざけちらしてすてん。」とて、五十余騎にてはせむかひ、「御辺は兵庫頭か。源氏勝たらば、一門なれば内裏へ参らん、平家かたば、主上おはしませば、六波羅へまいらんと、軍の勝負うかゞふと見るはいかに。凡武士は二心有を恥とす。ことに源氏のならひはさはさうず。よれや、くんで勝負を見せん。」とて、眞十文字に懸破て、追立追立、せめたゝかふ。さしもいさめる渡辺党、日比は百騎にも向ひ、千騎にもあはんとこそのゝしりしかども、悪源太に手いたふ懸られ奉(っ)て、馬の足をたてかねたれば、くむ武者一騎もなかりけり。 頼政が郎等、下総国住人、下河辺藤三郎行吉がはなつ矢に、相模国住人、山内須藤瀧口俊綱が頸の骨を射られて、馬よりおちんとしければ、父形部丞是をみて、「矢一すぢにそれほどよはるか。」といさめられて、弓杖ついて乗なをらんとしけるを、悪源太み給て、「瀧口は急所を射られつるぞ。敵に頸とらすな。」と下知せられければ、斉藤別当太刀をぬいて馳寄たり。俊綱、「御辺は御方にてはなきか。」といへば、実盛、「御曹子の仰に、さしもの兵を敵に首とらすなと承る間、御方へとる也。」といへば、俊綱に(っ)ことわら(う)て、「わかき大将にておはしませば、是までの御心ばせ有べしとこそ存ぜぬに、かばかりの御情ふかくわたらせ給ふ者かな。心やすく臨終せん。」とて、西にむかひ手をあはせ、頸を延てぞうたせける。弓矢とる身のならひ程、哀なりける事はなし。生れは相模国、はては雍州都の外、河原の土とぞ成にける。父形部丞これをみて、「一命をかろんじて軍をするも、瀧口を世にあらせんため也。俊綱うたせて、命いきても何かせん。打死せん。」とて懸ければ、御曹子、「あたら兵形部うたすな、者共。」との給へば、御方の兵はせふさが(っ)て制しければ、ちからなくなみだとともに引(っ)かへす。 さても頼政は、あながちに義朝に敵せんとまでは思はざりしかども、悪源太に懸たてられて、このむ所のさいはひと、六波羅へこそくはゝりけれ。まことに悪源太わかげのいたす所也。兵庫頭、勝負を両端にうかゞふが故に、平家に心ざすといへども、源氏のためにはまことの敵にあらず。一人なりとも、平家にあふてこそ死たけれ、せんなき同士軍に、あたら兵共をうたせられけるぞ無念なると、人々申ける。異国にも其例あり。漢の高祖と楚の項羽と国をあらそふ事八ヶ年、戦をなす事七十二度、毎度項羽かつにのるといへ共、政道みだりがはしき故に、民服せず。高祖は、たゝかひつねによはしといへども、撫民の徳あるがゆへに、人これによる。爰に王陵といふ者あり。城をこしらへ、兵をあつめながら、両方の勝負をまつが故に、楚にもくみせず、漢にも敵せずしてあひさゝへたり。名将たる故に、項羽しきりにめすといへ共、虞氏の行跡をかへりみて参ぜざる間、則兵をつかはして是をせむるに、城かたうしてさらに落ず。かへ(っ)ておほくの御方の勢をそこなふ。よ(っ)て楚王大きにいか(っ)て、はかりことをめぐらし、「其母をとらへて、楯の面に引張てよせたらんに、王陵は孝行第一の者なれば、定て弓をひくにあたはずして、必降をこはんか。しからば其身をいけ取て、首をはねよ。」と議せられけるを、母これをもれきいて、まことに王陵は無双の孝子なれば、われをして楯の面にふせしめば、かならず楚にくだらむと思ひける志あらんずる間、ひそかに使をつかはして此由をつげ、「天下はつゐに漢王に服すべし。汝も必高祖の臣となり、あへても(っ)て楚に降する事なかれ。よ(っ)て我はやく死をかろくす。」とて、則剣にふしてむなしく成にき。是によ(っ)て、王陵あながちに項羽にうらみふかきがゆへに、忽に高祖の臣となり、命をかろくし身をうしな(う)てせむといへり。是も漢こそまことの正敵なれ。高祖をだにも討たらましかば、千万の傍敵ありといふとも、をのづから服せしむべし。誠に大事の前の小事也。されば大孝は小謹をかへりみずといへり。大底武の道つよきに敵して命をうしなふ。よはきをたすけて身をほろぼす。皆是つねの規ぞかし。悪源太も義をも(っ)て和したらましかば、頼政も名将なれば、定て見捨ざらんか。義平わが武略に達せるまゝに、うたば忽にくだり、せめば必伏せんと思ふがゆへに、人の不義を取(っ)て身のあたとし給へり。縦ひ勇力ありとも、人和せずはつゐにかつ事をえじ。兵書のことばにいはく、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず。」といへり。尤思慮あるべき事共也。
平治物語 - 17 六波羅合戦の事
悪源太は、其まゝ六はらへ寄らるゝに、一人当千の兵ども、眞前にすゝんで戦ひけり。金子十郎家忠は、保元の合戦にも、為朝の陣に懸入、高間の三郎兄弟を組でうち、八郎御曹子の矢さきをのがれて名をあげけるが、今度もま(っ)さきかけてたゝかひけり。矢だねも皆射つくし、弓も引おり、たちをも打折ければ、折太刀をひ(っ)さげて、「あはれ太刀がな。今一合戦せん。」と思ひて、かけまはる所に、同国の住人足立右馬允遠元馳来れば、「是御覧候へ、足立殿。太刀を打折て候。御はきぞへ候はゞ、御恩にかうぶり候はん。」と申ければ、折節はきぞへなかりしか共、「御辺の乞がやさしきに。」とて、前をうたせける郎等の太刀を取て、金子にぞあたへける。家忠大きによろこんで、又かけ入て敵あまた討(っ)てけり。 足立が郎等申けるは、「日来より御前途にたつまじき者とおぼしめせばこそ、軍の中にて太刀を取て人には給はるらめ。此ほどは最後の御供とこそ存ぜしか共、是程に見かぎられ奉ては、さきだち申にしかじ。」とて、すでに腹をきらんと、上帯ををし切ければ、遠元馬よりとむでおり、「汝がうらむる所尤ことはり也。然れ共金子が所望のもだしがたさに、御辺が太刀を取つる也。軍をするも主のため、討死する傍輩に太刀をこはれて、あたへぬものや侍らん。漢朝の季札も除君に剣をこはれては、おしまずとこそうけたまはれ。しばらくまて。」といふ所に、敵三騎来て、足立をうたんとかけよせたり。遠元まづま(っ)さきに進たる武者を、よ(っ)ぴいてひやうどいる。其矢あやまたず内甲に立て、馬より眞倒におちければ、のこり二騎は馬をおしみて懸ざりけり。遠元やがてはしりよ(っ)て、帯たる太刀を引切(っ)ておつ取、「汝がうらみ眞中、くわ、たちとらするぞ。」とて、郎等にあたへ、うちつれてこそ又懸けれ。 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へよせて、門の中へいらざるこそ口おしけれ。すゝめや、者ども。」とて、究竟の兵五十余騎、しころをかたぶけてかけいれば、平家の侍ふせぎかね、ば(っ)と引てぞ入にける。義平まづ本意をとげぬとよろこんで、おめきさけんで懸入給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、軍下知してゐ給ひけるが、妻戸のとびらに、敵のいる矢雨のふるごとくにあたりければ、清盛いか(っ)ての給ひけるは、「ふせぐ兵に恥ある侍がなければこそ、是まで敵は近づくらめ。いで<、さらばかけん。」とて、紺のひたたれに黒糸縅のよろひき、黒漆の太刀をはき、くろほろの矢負、ぬりごめ藤の弓も(っ)て、くろき馬に黒鞍をかせて乗給へり。上より下までおとなしやかに、出たゝれけるが、鐙ふむばり大音あげて、「よせての大将軍は誰人ぞ。かう申は太宰大弐清盛也。見参せん。」とて、かけ出られければ、御曹子これをきゝ給ひ、「悪源太義平こゝにあり。えたりやおう。」とさけびてかく。平家の侍これをみて、筑後守父子・主馬判官、管親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、眞前にはせふさが(っ)て戦けり。 源平互に入みだれて、こゝを最後ともみあふたり。孫子が秘せし所、子房が伝所、互にしれる道なれば、平家の大勢、陽にひらいてかこまんとすれ共かこまれず、陰にとぢてうたんとすれどもうたれず、千変万化して、義平三方をまくりたて、おもてもふらず切(っ)てまはり給ひしか共、源氏は今朝よりのつかれ武者、いきをもつかずせめ戦、平家はあらてを入かへ<、城にかゝ(っ)て馬をやすめ、懸いで<たゝかひければ、源氏つゐにうちまけて、門より外へ引しりぞき、やがて河をかけわたし、河原を西へぞ引たりける。 義朝是をみ給て、「義平が河より西へ引つるは家のきずとおぼゆるぞ。今は何をか期すべき。討死せん。」とて懸られければ、鎌田馬よりとんでおり、水付に立て申けるは、「むかしより弓矢を取(っ)て、源平いづれも勝負なしと申せども、ことさら源家をばみな人たけき事と申侍り。たとへば栴檀の林に余木なく、崑崙山は土石こと<”く美玉なるがごとく、源氏に属する兵までも、弓矢を取ては名をえたり。それに今朝よりの合戦に、馬なづみ人つかれて、物具にすきまおほく、失種つき打物おれて、のこる御勢過半は疵をかうぶれり。今たとひ敵にかけあふといふとも、かひ<”しき事はなくて、雑人の手にかゝり、遠矢に射られてうたれん事、歎きのうへのかなしみ也。いかにいはんや、大将の御死骸を、敵軍の馬蹄にかけん事をや。しばらくいづくへも落させ給ひ、山林に身をかくしても、御名ばかりをのこしをき、敵に物をおもはさせ給はんこそ、謀の一にても候べけれ。只今爰にて打れさせ給ひなば、てきは弥々利を得、諸国の源氏はみな力をおとしはて、忽に敵に属し候なん。縦ひ、のがれがたうして、御自害候とも、ふかくかくしまいらせて、東国の御方のたのみある様にこそ御はからひ候はんずれ。死せる孔明、いける仲達をはしらかすとこそ申たるに、やみ<と敵に討とられ給はん事、誠に子孫の御恥辱たるべし。御曹司も、定て御所存あ(っ)てぞおはしますらん。はや落させ給へ。」と申せば、「あづまへゆかばあふさか山・不破の関、西海におもむかば、須磨・明石をやすぐべき。弓矢とる身は、死すべき所をのがれぬれば、中々最後の恥ある也。たゞこゝにてうち死せん。」とすゝみ給へば、政家かさねて申やう、「こは御定ともおぼえ候はぬ物哉。死を一途にさだむるは、ちかうしてやすく、謀を万代にのこすは、とをうしてかたしといへり。かなはぬ所にて御腹めされん事、なにの義か候べき。越王は会稽にくだり、漢祖は栄陽をのがるゝ、みな謀をなして、本意をとげしにあらずや。身を全して敵をほろぼすをこそ、良将とは申て候へ。とく<延させ給へ。」とて、御馬の口を北のかたへをしむけければ、鎌田が取付たるを力として、兵あまたおり立(っ)て懸させ奉らねば、ちからなく河原をのぼりにおちられけり。
平治物語 - 18 義朝敗北の事
平家追懸てせめければ、三条河原にて鎌田兵衛申けるは、「頭殿はおぼしめす旨あ(っ)て落させ給ふぞ。よく<ふせぎ矢つかまつれ。」といひければ、平賀四郎義宣、引返し散々にたゝかはれければ、義朝かへり見給て、「あ(っ)ぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」との給へば、佐々木の源三・須藤形部・井沢四郎を始として、われも<と眞前に馳ふさが(っ)てふせぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎切(っ)ておとし、我身も手負ければ、近江をさして落にけり。須藤形部俊通も、六条河原にて、瀧口と共に討死せんとすゝみしを、とゞめ給ひしかども、こゝにて敵三騎討取て、つゐにうたれてけり。井澤四郎宣景は、廿四さしたる失をも(っ)て、今朝のたゝかひに敵十八騎討おとし、いまの合戦によき敵四騎射ころしたれば、ゑびらに二ぞ残たる。その後打物に成てふるまひけるが、いた手おふて引にけり。東近江におちて疵療治し、弓うちきり杖につき、山づたひに甲斐の井沢へぞゆきにける。 か様に面々たゝかふ間に、義朝おちのび給ひしかば、鎌田をめして、「汝にあづけしひめはいかに。」との給へば、「私の女に申をきまいらせて候。」と申せば、「いくさに負ておつるときゝ、いかばかり
の事か思らん。中中ころしてかへれ。」との給へば、鞭をあげて、六条堀川の宿所にはせ来てみければ、軍におそれて人ひとりもなきに、持仏堂の中に人音しければ、ゆきて見るに、姫君仏前に経うちよみておはしけるが、政家を御覚じて、「さてそも、軍はいかに。」と問給へば、「頭殿は打負させ給て、東国のかたへ御おち候が、姫君の御事をのみ、かなしみまいら(っ)させ給ひ候。」と申せば、「さては我らも只今敵にさがし出され、是こそ義朝のむすめよなどさたせられ、恥を見んこそ心うけれ。あはれ、たかきもいやしきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なればいくさに出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とてのこしをかれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸をけがさん事こそかなしけれ。兵衛、まづ我をころして、頭殿の見参にいれよ。」とくどき給へば、「頭殿も此仰にて候。」と申せば、「さてはうれしき事かな。」とて、御経をまきおさめ、仏にむかひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つとまいり、ころし奉らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今までおふしたてまいらせたれば、いかでか哀になかるべき。なみだにくれて、刀の立所もおぼえずして、なきゐたりければ、姫君、「敵やちかづくらん、とく<。」と進め給へば、力なく三刀さして御首をとり、御死骸をばふかく納めて馳かへり、頭殿の見参に入たりければ、たゞ一め御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりにしりたまへる僧の所へ、此御頸をつかはして、「とぶらひてたび給へ。」とてぞおちられける。 さる程に、平家の軍兵はせ散(っ)て、信頼・義朝の宿所を始て、謀叛の輩の家々に、をしよせ<火をかけて、やきはらひしかば、其妻子眷属、東西に逃まどひ、山野に身をぞかくしける。方々におち行人々は、我行前はしらね共、跡のけぶりをかへりみて、敵は今や近付らむ、いそげ<と身をもみけり。比叡山には、信頼・義朝うちまけて、大原口へおつるとさたしければ、西塔法師これをきゝて、「いざや落人打とゞめん。」とて、二三百人千束ががけに待かけたり。義朝此由きゝ及び、「都にてともかくも成べき身の、鎌田がよしなき申状によ(っ)て、是までおちて山徒の手にかゝり、かひなき死をせんずるこそ口おしけれ。」とのたまへば、斉藤別当申けるは、「こゝをば実盛とをしまいらせ候はん。」とて、馬よりおり、甲をぬいで手にひ(っ)さげ、みだれ髪を面にふりかけ、近付よ(っ)ていひけるは、「右衛門督、左馬頭殿已下、おもとの人々は、みな大内・六波羅にて討死し給ひぬ。是は諸国のかり武者どもが、恥をもしらず妻子を見んために、本国におち下り候なり。討留て、罪つくりに何かし給はん。具足をめされむためならば、物具をばまいらせ候はん。とをして給はれ。」と申ければ、「げにも大将達にてはなかりけり。葉武者はうちて何かせん。具足をだにぬぎすてば、とをされよかし。」と僉議しければ、実盛かさねて、「衆徒は大勢おはします。われらは小勢なり。草摺を切ても猶及びがたし。なげんにしたがひうばひ取給へ。」といへば、おもてにすゝめる若大衆、「尤しかるべし。」とてあひあつまる。後陣の老僧も、われおとらじと一所によ(っ)て、きほひあらそふ所に、実盛冑をかつぱとなげたりけり。われとらんとひしめきければ、あへて敵の体をも見つくろはざりける処に、卅二騎の兵、打物を抜て、冑のしころをかたぶけ、がはと懸入けちらしてとをりければ、大衆にはかに長刀をとりなをし、あますまじとて追懸ければ、実盛大わらはにて、大の中差取(っ)てつがひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんとおもはゞよれや。手がらの程みせん。」とて、取(っ)て返せば、大衆の中に弓取は少もなし、かなわじとや思ひけん、皆引てぞ帰りける。 義朝八瀬の松原を過られけるに、跡より、「やゝ。」と呼こゑしければ、何者やらんとみ給へば、はるかに前へぞ延ぬらんとおぼえつる信頼卿追付て、「もし軍にまけて東国へおちん時は、信頼をもつれて下らんとこそきこえしか。心がはりかや。」との給へば、義朝余りのにくさに腹をすへかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立(っ)て、一いくさだにせずして、我身もほろび人をもうしなふにこそ。おもてつれなふ物をのたまふ物かな。」とて、もたれたる鞭をも(っ)て、信頼の弓手の頬崎を、したゝかにうたれけり。信頼此返事をばし給はず、誠に臆したる体にて、しきりにむちめををしなで<ぞせられける。乳母子の式部大夫助吉これをみて、「何者なれば、督殿をばかうは申ぞ。わ人ども心の剛ならば、など軍にはかたずして、負ては国へ下るぞ。」といひければ、義朝、「あの男に物ないはせそ。討て捨よ。」との給ひければ、鎌田兵衛、「何条たゞいまさる事の候べき。敵やつゞき候らん。延させ給へ。」とてゆく所に、又横河法師上下四五百人、信頼・義朝のおつるなる、うちとめんとて、龍下越にさかもぎ引、掻楯かいてまち懸たり。 卅余騎の兵、各馬よりとびおり<、手々に逆茂木をば物ともせず、引ふせ<とをる所に、衆徒の中より、さしつめひきつめ散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の頸の骨を射られて、馬よりさかさまにおちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたゝかに射られて、鐙をふみかね給ひければ、義朝、「大夫は失にあたりつるな。つねに鎧づきをせよ。うらかゝすな。」とのたまへば、其矢ひつかなぐつてすて、「さも候はず、陸奥六郎殿こそいた手おはせ給ひ候つれ。」とて、さらぬ体にて馬をぞはやめられける。六郎殿うたれ給へば、頸をとらせて義朝のたまひけるは、「弓矢取身のならひ、軍に負ておつるは、つねの事ぞかし。それを僧徒の身として、たすくるまでこそなからめ、結句うちとめんとし、物具はがんなどするこそ奇怪なれ。にくいやつばら、後代のためしに一人も残さずうてや者ども。」と、下知せられければ、卅余騎くつばみをならべ「懸入わりつけ追まはし、せめつめ<切付られければ、山徒立所に卅余人うたれにければ、のこる大衆、大略手負て、はう<谷々へかへるとて、「此落人うちとゞめんといふ事は、誰がいひ出せる事ぞ。」とて、あれよこれよと論じける程に、同士軍をしいだして、又おほくぞ死にける。誠に出家の身として、落人うちとゞめ、物具うばひとらんなどして、わづかの落武者にかけたてられ、おほくの人をうたせ、又同士軍し出して、あまたの衆徒をうしなふ事、僧徒の法にも恥辱也、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にもそむき、神明にもはなたれ奉りぬとぞおぼえし。 此敵をも追ちらしければ、龍下のふもとにみなおりゐて、馬をやすめられけるが、義朝、後藤兵衛眞基をめして、「汝にあづけをきし姫はいかに。」とのたまへば、「私の女によく<申ふくめて候へば、別の御事は候まじ。」と申けり。「さては心やすけれども、汝これより都へ帰りのぼり、ひめをそだてゝ尼にもなし、義朝が後世菩提とぶらはせよ。」との給へば、「先いづくまでも御供仕り、とも角もならせ給はん御有様を見とつけまいらせてこそ帰りのぼり候はんずれ。」と申せども、「存ずるむねあり。とく<。」との給へば、力及ばずみやこへ帰り、姫君につき奉り、こゝかしこにかくしをきまいらせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保卿の北方になし奉りける也。眞基も鎌倉殿の御時に世に出けるとぞきこえし。
平治物語 - 19 信頼降参の事並びに最後の事
去ほどに信頼卿は、すてられて、八瀬の松原より取(っ)て返されけり。それまでは侍ども五十騎ばかり有けるが、「此殿は人に頬をうたれて、返事をだにもし給はねば、侍の主には叶ひがたし。行末もさこそおはせめ。」とて、ちり<”に落ゆきしかば、乳母子の式部大夫ばかりにぞ成にける。余りにつかれてみえ給へば、ある谷川にて馬よりいだきおろし、干飯あらひてまいらせけれども、今朝の時のこゑにおどろきて後は、胸ふたがりて、つをだにもはか<”しくのみ入給はねば、まして一口もえめさゞりけり。又馬にかきのせて、「いづくへかいらせ給はん。」と問奉れば、「仁和寺殿へ。」との給ふ間、連台野へぞ出にける。爰に山法師の死したるを葬して帰る者どもにぞゆきあひける。法師原是をみて、「此夜中にしのびてとをるは、落人の帰り来るにてぞ有らん。討とゞめ物具はげ。」とのゝしりければ、式部大夫とりあへず、「是は六はらより落人を追て長坂へ向ふて候が、敵ははやおちのびて候間、帰りまいるに、くらさはくらし、御方の勢に追をくれて侍なり。」とこたへければ、さもあるらんとや思ひけん、すでにとをすべかりけるに、法師一人笠じるしを見んとや思ひけん、「まことしからず、野伏もなくて。」とて、続松ふりあげて近づけば、信頼さきにうたれけるが、あはやとおどろきて、おつるともなく馬よりおり、物具ぬぎ捨て、鎧直垂より小具足・太刀・刀・馬鞍までとりやかな(う)て、「命ばかりをばたすけ給へ。」とて、手を合られければ、式部大夫もはがれてけり。それより大白衣にて、はうはう仁和寺殿へまいり、昔の御めぐみの名残なれば、御助ぞあらんずらんとて、頸をのべて参たる由申入られたり。しかのみならず伏見源中納言師仲卿もまいり、越後中将成親も参られけり。 上皇もとよりふびんにおぼしめさるゝ人々なれば、かたはらにかくしをかれて、先主上へ、「信頼をば助させたまへ。」と御書をまいら(っ)させ給ひしか共、あへて御返事もなかりければ、重て、「愚老をたのみてまいりたる者どもなれば、まげてたすけをかせ給へ。」と申させ給ふ。御使も未かへらざるに、三河守頼盛・淡路守敦盛、両大将にて三百余騎仁和寺にをしよせて、信頼をはじめて、上皇をたのみまいらせてまいりあつまりたる謀叛の輩、五十余人めしと(っ)てかへられけり。越後中将成親朝臣は、嶋摺の直垂のうへに縄付て、六波羅の馬屋の前に引すへられておはしけり。既に死罪にさだまりたりしを、重盛今度の勲功の賞に申かへて、あづかり給ひける也。此中将、院の御気色よき人にて、院中の事申さたせられけるが、重盛出仕のたびごとに、芳心せられけるゆへ也となん。されば人はなさけ有べき事にや。 信頼卿をば、門前に引すへ、左衛門佐して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、重盛、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、清盛、「今度の謀叛の本人なり。上皇の申させ給へども、君もきこしめし入ず、いかでか私にはゆるすべき。はやく死罪にさだまりぬ。とう<きれ。」との給へば、左衛門佐、此上は力及ばずとてたゝれけり。 やがて六条河原にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、重盛はさばかりの慈悲者とこそきゝつるに、などや頼信をば申助給はぬやらん。」とて、起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、松浦太郎重俊切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。年来院のきり人にて、諸人の追従をかうぶり、去 十日より内裏に侍て、さま<”のひが事をなし給ひしかば、百官龍蛇の毒をおそれ、万民虎狼の害をなげきしに、今日のありさまは、乞食・非人にも猶おとりたりとぞ、見物の諸人申あへる。彼左納言右大史、朝に恩をうけてゆふべに死をたまはると、白居易のかきしも、ことはりかなとぞおぼえし。 こゝに齢七十ばかりなる入道の、柿の直垂に文書ぶくろ頸にかけたるが、平足駄はき、鹿杖つき、市のごとく立こみたるおほくの人を、かきわけ<ゆきければ、右衛門督のとしごろの下人、主の死骸をおさめんとするにやと見る所に、さはなくて、むくろをはたとにらみ、「をのれは。」とて、持たる杖にて二打三うち打ければ、見物の諸人、「こはいかに。」といふに、此入道がいはく、「相伝の所領を無理にをのれに押領せられ、おほくの所従をうしなひ、我身をはじめて子孫どもに飢寒の苦痛みせつるは、をのれが所行にあらずや。かゝるひが事の積りによ(っ)て、いますでに首をきられ、入道が目の前に恥をさらすぞ。われいきて汝が死骸をうつ。わが杖は死してよもいたまじ。獄卒のしもとは今こそあたるらめ。魂魄もしあらば、たしかに此詞をきけ。大弐殿の御嫡子左衛門佐殿は、有道のきこえましませば、此文書見参にいれて、本領安堵して、をのれが草の陰にて見んずるぞ。思へば猶にくきぞ。」とて又一枚うちてぞ帰りける。 温野に骨を礼せし天人は、平生の善をよろこび、寒林に骸をうちし霊鬼は、前世の悪をかなしむとも、かやうの事をや申べき。彼老者は、丹波国の在庁、監物入道なにがしといふ者なり。無念におもひけん事はさる事なれ共、あまりなるふるまひかなとて、にくまぬ者ぞなかりける。切手帰りければ、人々信頼の最後のさま尋らるゝに、「哀なる中にもをかしかりしは、軍の日、馬よりおちて、鼻のさきをつきかきし跡、八瀬にて義朝にうたれし鞭目、左のほうさきにうるみてありしぞ、見ぐるしかりし。」など面々沙汰しけるを、大宮の左大臣伊通公きゝ給ひて、「一日の猿楽に鼻をかくといふ世俗のことばこそあるに、信頼は一日の軍に鼻をかきけり。」との給しかば、みな人興にぞ入られける。
平治物語 - 20 官軍除目行はるる事付けたり謀叛入賞職を止めらるる事
伏見源中納言師仲は、「勧賞をかうぶるべき身にてこそ侯へ。信頼卿内侍所を取(っ)て、東国へ下しまいらせんとせられ候しを、女、坊門局の宿所、姉小路東洞院にかくしをきまいらせて候へば、朝敵にくみせざる支証分明に候。但信頼、時時伏見へ来りしも権勢におそれて、心ならぬまじはりにて候き。叛逆のくはたてにをひては、かつて存ぜず。よく<きこしめしひらかるべし。」と陳じ申されけり。河内守季実、其子左衛門尉季守は、のがるゝ所なくして、父子ともに誅せらる。 やがて叙位除目おこなはれて、大弐清盛は正三位に叙し、嫡子左衛門佐は伊与守に任じ、次男大夫判官基盛は大和守、三男宗盛は遠江守になる。清盛舎弟三河守頼盛は尾張守になる。伊藤武者景綱は伊勢守に補す。上卿は花山院大納言忠雅卿、職事は蔵人朝方とぞきこえし。 信頼卿の舎兄兵部権大輔基家・民部権少輔基通・舎弟尾張守少将信俊・子息新侍従信親・幡磨守義朝・中宮大夫進朝長・兵衛佐頼朝・佐渡式部大夫重成・但馬守有房・鎌田兵衛政家已下、七十三人の官職をとゞめらる。此内両人やがて尋出されて、民部権少輔基通は陸奥の国へ、尾張少将信俊は越後国へぞながされける。其外或は誅せらるゝ者、後日にもおほかりけり。 昨日まで朝恩にほこ(っ)て、余薫一門に及びしかども、今日は誅戮をかうぶ(っ)て、愁歎を九族にほどこす。朝につかへて、楽を春花の前にひらき、いましめをかうぶ(っ)ては、なげきを秋の霜のもとにあらはす。夢の富は、おぼえてのかなしみ也。一夜の月はやく有漏不定の雲にかくれ、朝の咲は暮の涙なり。片時のはな、むなしく無常転変の風に随ふ。盛衰のことはり、眼の前にあり。生界の中に、誰人か此難をのがるべき。さても堀川天皇嘉承二年に、対馬守源義親誅伐せられしよりこのかた、近衛院の御代、久寿二年にいたるまで、すでに卅余年、天下風静にして、民、唐尭・虞舜の仁恵にほこり、海内なみおさま(っ)て、国、延喜・天暦の徳政をたのしみしに、保元に合戦あ(っ)て、洛中はじめてさはぎしをこそ、あさましき事と思ひしに、いくほどの年月をもをくらざるに、又此みだれ出来て、人おほくほろびしかば、世すでに末に成(っ)て、国ほろぶべき時節にやあるらんと、心ある人はなげきあへり。同廿九日公卿僉議あ(っ)て、此ほど大内に兇徒殿舎に宿して、狼籍繁多也。きよめられずして、還幸ならん事然るべからざるよし、議定ありき。


