平治物語 - 05 信西出家の由来並びに南都落ちの事付けたり最後の事

 さるほどに、通憲入道を尋られけれ共、行衛をさらにしらざりけり。彼信西と申は、南家の博士、長門守高階の経俊が猶子也。大業もとげず、儒官にも入られず、重代にあらざるなりとて、弁官にもならず、日向守通憲とて、何となく御前にてめしつかはれけるが、出家しけるゆへは、御所へまいらんとて、鬢をかきけるに、鬢水に面像をみれば、寸の首、剣の前にかゝ(っ)て、むなしくなるといふ面相あり。大におどろき思ひける比、宿願あるによ(っ)て、熊野へまいりけり。切部の王子の御前にて、相人にゆきあひたり。通憲をみて相じていはく、「御辺は諸道の才人かな。但、寸の首、剣のさきにかゝ(っ)て、露命を草上にさらすといふ相のあるはいかに。」といひて、一々に相じけるが、行末はしらず、こしかたは何事もたがはざりければ、「通憲もさ思ふぞ。」とて、歎きかなしみけるが、「それをばいかにしてかのがるべき。」といふに、「いさ、出家してやのがれむずらん。それも七旬にあまらばいかゞあらん。」とぞいふ。さてこそ下向して御前へまいり、「出家の志候が、日向の入道とよばれんは、無下にうたてしうおぼえ候。少納言を御ゆるしかうぶり候はゞや。」と申ければ、「少納言は一の人もなりなどして、左右なくとりおろさぬ官なり。いかがあらん。」と仰られけるを、様々に申して御ゆるされをかうぶり、やがて出家して、少納言入道信西とぞいひける。子ども或は中少将にいたり、或は七弁にあひならばせて、ゆゝしかりしが、つゐに墨染の袖に身をかへても、露の命を野辺の草葉にをきかねしは、昨日のたのしみ、けふのかなしみ、諸行無常はたゞ目の前にあらはれたり。吉凶はまつはれる縄のごとしといふぞことはりなる。 信西九日の午刻に、白虹日をつらぬくといふ天変をみて、今夜御所へ夜うち入べしとは、かねてしりたりけるにや、此様申いれんとて、院の御所へまいりたれば、折ふし御遊にて、子どもみな御前に祠候したりしかば、其興をさましまいらせんも無骨なれば、ある女房に子細を申をきてまかり出にけり。宿所にかへり、紀伊二位に、「かゝる事あり。子どもにもしらせたまへ。信西は思ふむねあ(っ)て、ならのかたへ行なり。」といひければ、尼公もおなじ道にとなげかるれ共、様々にこしらへとめて、侍四人相具し、秘蔵せられける月毛の馬に打乗て、舎人成澤をめし具し、南都のかたへおちられけるが、宇治路にかゝり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける。 石堂山のうしろ、しがらきの峯をすぎ、はる<”わけいるに、又天変あり。木星、寿命家にあり。大伯経典に侵す時は、忠臣君にかはり奉るといふ天変なり。信西大におどろき、もとより天文淵源をきはめたりければ、みづから是をかんがふるに、「つよき者よはく、よはき者はつよしといふ文あり。これ君おごる時は臣よはく、臣おごる時は君よはくなるといへり。今、臣おご(っ)て君よはくならせ給べし。忠臣君にかはるといふは、おそらく我なるべし。」とおもひて、あくる十日のあした、右衛門尉成景といふ侍をめして、「都のかたに何事かある。みてかへれ。」とてさしつかはす。成景馬にうち乗てはせゆくほどに、小幡たうげにて、入道の舎人武澤といふ者、院の御所に火かゝ(っ)て後、禅門ならへときゝしかば、此事申さんとてはしりけるに行あひ、しか<”の由をかたり、「あねが小路の御宿所もやきはらはれ候ぬ。是は右衛門督殿、左馬頭殿をかたらひ、入道殿の御一門をほろぼし給はんとのはかりことゝこそ承り候へ。其よしをつげまいらせむとて、奈良へまいり候。」と申せば、下臈におはし所しらせてはあしかりなんと思へば、「汝いしくまいりたり。春日山のおく、しか<”の所也。」とをしへて、成景は京へのぼるよしにて、田原のおくにかへり、入道に此由を申せば、「さればこそ、信西が見たらん事は、よもたがはじとおぼえつるぞ。忠臣君にかはりたてまつるとあれば、しかじ、命をうしな(う)て御恩を報じ奉らんには。但息のかよはん程は、仏の御名をとなへまいらせんと思へば、其用意せよ。」とて、穴をふかくほり、四方に板をたてならべ、入道をいれ奉り、四人の侍もとゞり切て、「最後の御恩には法名を給はらん。」と、をの<申せば、左衛門尉師光は西光、右衛門尉成景は西景、武者所師清は西清、修理進清実は西実とぞ付られける。其後大きなる竹のよをとをして、入道の口にあてゝ、もとどりを具してほりうづむ。四人の侍、墓の前にてなげきけれ共、叶べき事ならねば、なく<都へかへりけり。