平治物語 - 07 唐僧来朝の事

 彼紀二位と申は、紀伊守範元が孫、右馬頭範国が女也。八十嶋下に三位に叙し、やがて従二位して、紀伊二位とぞ申ける。信西が妻室と成て、ふしぎおほき中に、唐僧来て、生身の観音なりとて拝する事あり。 其故は、久寿二年の冬の比、鳥羽の禅定法皇、熊野山に御参詣ありしに、その此那智山に唐僧あり。名をば淡海沙門といふ。彼僧、異国にて、我此身をすてずして、生身の観音をおがみ奉らんといふ願をおこし、天にあふぎて一千日の間祈請をなす。千日に満じける夜、「汝生身の観音をおがまんと思はゞ、日域にわた(っ)て、那智山といふ所におもむけ。」と天の示現をかうぶり、渡海の本望をとげて、彼山に参籠せるなり。法皇此よしきこしめして、唐僧をめされければ、御前へ参て、「和尚、々々。」礼す。唐僧なれば、語をきゝしろしめす人なし。たゞ鳥のさへづるごとくなりしを、信西末座に候けるが、「禅加此法誤除浄精にて来れるか。」ととへば唐僧のいはく、「さにあらず弘誓破戒説除大精にて来たる也。」とこたふ。さて唐僧、・信西がことばをきいて、才覚の程をはからんとや思ひけん、異国の事をとひかけたり。「震旦の長安城より、天竺の舎耶大城へは何万里ぞ。」ととへば、「十萬余里。」とこたふ。「遺愛寺と云寺はいづくにかある。」「天台山より西へさる事七百里、白楽天の世をのがれし所ぞかし。」とこたふれば、唐僧難義をとはんとや思ひけん、「扁鵲が門には何かある。」といふ。「延命といふ草をうへたり。是れを見る人、善をまねき、悪をさけ、寿命ひさしくのぶといふ。」「女陽が門にはなにか有。」「乱樹といふ木あり。三十年に一度、片枝に花さき、かたえだには菓なる。これをと(っ)てくふ人、酔事百余日、そのあぢはひ西王母が桃ににたり。」「長良国とはいづくぞ。」「都城よりたつみへさる事二百里なり。梵王のたち給ふ三百余尺の馬脳の塔あり。かの塔のもとには、摩訶曼陀羅華・摩訶曼珠沙華、四種の天華ひらけたり。釈尊燃燈仏のみもとにして、かみをおろし給ひし所也。」「大雪山には。」「薬寿王と云木あり。彼木の葉をつゞみにぬりて、うつ声をきく人、不老不死の徳を得たり。」「西山には。」「波珍と云虫あり。首にもろ<の財を戴き、つねに仏を供養し奉るおもひあり。」「長山には。」「三重の瀧あり。彼瀧の水をのむ人、大きにいかるこゝろあり。されども竹馬に鞭う(っ)て道心をもよほすといへり。」「瓠火琴を弾ぜしかば。」「四方のうろくづ陸にあがり。」「鈴宗笛をふきしかば。」「天人袖をひるがへす。」「唐の太宗は。」「甕のほとりにして、天下をおさむる先相あり。」と、一々にこたへければ、唐僧、「わが国よりわたれる者か、此国より来(っ)て学せる者か。」ととへば、「もとよりわれ此国の素生なれ共、若遣唐使にやわたらんずらんとて、天竺・震旦・高麗・新羅・百済を始て、五六ヶ年の間に、上一人より下万民の申かへたることばまで学したる也。」とこたへければ、「われ生身の観音をおがみ奉らんと、天の示現をかうぶ(っ)て、是まで来れり。なんぢ則生身の観音たり。我願むなしからず。」とて、信西を三度礼し、種々の引出物をしてけり。其後、信西我国のことばをも(っ)て此趣を奏しければ、君をはじめまいらせて、供奉の人々、皆不思議の思ひをなされけり。