平治物語 - 17 六波羅合戦の事

 悪源太は、其まゝ六はらへ寄らるゝに、一人当千の兵ども、眞前にすゝんで戦ひけり。金子十郎家忠は、保元の合戦にも、為朝の陣に懸入、高間の三郎兄弟を組でうち、八郎御曹子の矢さきをのがれて名をあげけるが、今度もま(っ)さきかけてたゝかひけり。矢だねも皆射つくし、弓も引おり、たちをも打折ければ、折太刀をひ(っ)さげて、「あはれ太刀がな。今一合戦せん。」と思ひて、かけまはる所に、同国の住人足立右馬允遠元馳来れば、「是御覧候へ、足立殿。太刀を打折て候。御はきぞへ候はゞ、御恩にかうぶり候はん。」と申ければ、折節はきぞへなかりしか共、「御辺の乞がやさしきに。」とて、前をうたせける郎等の太刀を取て、金子にぞあたへける。家忠大きによろこんで、又かけ入て敵あまた討(っ)てけり。 足立が郎等申けるは、「日来より御前途にたつまじき者とおぼしめせばこそ、軍の中にて太刀を取て人には給はるらめ。此ほどは最後の御供とこそ存ぜしか共、是程に見かぎられ奉ては、さきだち申にしかじ。」とて、すでに腹をきらんと、上帯ををし切ければ、遠元馬よりとむでおり、「汝がうらむる所尤ことはり也。然れ共金子が所望のもだしがたさに、御辺が太刀を取つる也。軍をするも主のため、討死する傍輩に太刀をこはれて、あたへぬものや侍らん。漢朝の季札も除君に剣をこはれては、おしまずとこそうけたまはれ。しばらくまて。」といふ所に、敵三騎来て、足立をうたんとかけよせたり。遠元まづま(っ)さきに進たる武者を、よ(っ)ぴいてひやうどいる。其矢あやまたず内甲に立て、馬より眞倒におちければ、のこり二騎は馬をおしみて懸ざりけり。遠元やがてはしりよ(っ)て、帯たる太刀を引切(っ)ておつ取、「汝がうらみ眞中、くわ、たちとらするぞ。」とて、郎等にあたへ、うちつれてこそ又懸けれ。 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へよせて、門の中へいらざるこそ口おしけれ。すゝめや、者ども。」とて、究竟の兵五十余騎、しころをかたぶけてかけいれば、平家の侍ふせぎかね、ば(っ)と引てぞ入にける。義平まづ本意をとげぬとよろこんで、おめきさけんで懸入給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、軍下知してゐ給ひけるが、妻戸のとびらに、敵のいる矢雨のふるごとくにあたりければ、清盛いか(っ)ての給ひけるは、「ふせぐ兵に恥ある侍がなければこそ、是まで敵は近づくらめ。いで<、さらばかけん。」とて、紺のひたたれに黒糸縅のよろひき、黒漆の太刀をはき、くろほろの矢負、ぬりごめ藤の弓も(っ)て、くろき馬に黒鞍をかせて乗給へり。上より下までおとなしやかに、出たゝれけるが、鐙ふむばり大音あげて、「よせての大将軍は誰人ぞ。かう申は太宰大弐清盛也。見参せん。」とて、かけ出られければ、御曹子これをきゝ給ひ、「悪源太義平こゝにあり。えたりやおう。」とさけびてかく。平家の侍これをみて、筑後守父子・主馬判官、管親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、眞前にはせふさが(っ)て戦けり。 源平互に入みだれて、こゝを最後ともみあふたり。孫子が秘せし所、子房が伝所、互にしれる道なれば、平家の大勢、陽にひらいてかこまんとすれ共かこまれず、陰にとぢてうたんとすれどもうたれず、千変万化して、義平三方をまくりたて、おもてもふらず切(っ)てまはり給ひしか共、源氏は今朝よりのつかれ武者、いきをもつかずせめ戦、平家はあらてを入かへ<、城にかゝ(っ)て馬をやすめ、懸いで<たゝかひければ、源氏つゐにうちまけて、門より外へ引しりぞき、やがて河をかけわたし、河原を西へぞ引たりける。 義朝是をみ給て、「義平が河より西へ引つるは家のきずとおぼゆるぞ。今は何をか期すべき。討死せん。」とて懸られければ、鎌田馬よりとんでおり、水付に立て申けるは、「むかしより弓矢を取(っ)て、源平いづれも勝負なしと申せども、ことさら源家をばみな人たけき事と申侍り。たとへば栴檀の林に余木なく、崑崙山は土石こと<”く美玉なるがごとく、源氏に属する兵までも、弓矢を取ては名をえたり。それに今朝よりの合戦に、馬なづみ人つかれて、物具にすきまおほく、失種つき打物おれて、のこる御勢過半は疵をかうぶれり。今たとひ敵にかけあふといふとも、かひ<”しき事はなくて、雑人の手にかゝり、遠矢に射られてうたれん事、歎きのうへのかなしみ也。いかにいはんや、大将の御死骸を、敵軍の馬蹄にかけん事をや。しばらくいづくへも落させ給ひ、山林に身をかくしても、御名ばかりをのこしをき、敵に物をおもはさせ給はんこそ、謀の一にても候べけれ。只今爰にて打れさせ給ひなば、てきは弥々利を得、諸国の源氏はみな力をおとしはて、忽に敵に属し候なん。縦ひ、のがれがたうして、御自害候とも、ふかくかくしまいらせて、東国の御方のたのみある様にこそ御はからひ候はんずれ。死せる孔明、いける仲達をはしらかすとこそ申たるに、やみ<と敵に討とられ給はん事、誠に子孫の御恥辱たるべし。御曹司も、定て御所存あ(っ)てぞおはしますらん。はや落させ給へ。」と申せば、「あづまへゆかばあふさか山・不破の関、西海におもむかば、須磨・明石をやすぐべき。弓矢とる身は、死すべき所をのがれぬれば、中々最後の恥ある也。たゞこゝにてうち死せん。」とすゝみ給へば、政家かさねて申やう、「こは御定ともおぼえ候はぬ物哉。死を一途にさだむるは、ちかうしてやすく、謀を万代にのこすは、とをうしてかたしといへり。かなはぬ所にて御腹めされん事、なにの義か候べき。越王は会稽にくだり、漢祖は栄陽をのがるゝ、みな謀をなして、本意をとげしにあらずや。身を全して敵をほろぼすをこそ、良将とは申て候へ。とく<延させ給へ。」とて、御馬の口を北のかたへをしむけければ、鎌田が取付たるを力として、兵あまたおり立(っ)て懸させ奉らねば、ちからなく河原をのぼりにおちられけり。