平治物語 - 14 源氏勢汰への事

 いつもの沈酔なれば、かかる一大事を思ひたちながら、ゑひふして、女房どもに、「こゝうて。かしこさすれ。」とて、ね給ひけるに、越後中将成親、廿七日のあけぼのにはしり来り、「いかにかくてはおはするぞ。行幸は他所へなり候ぬ。今はのこりとゞまる卿相雲客一人も候はざ(ん)也。ひとへに御運のきはめとこそおぼえ候へ。」とつげられければ、信頼、「よもさはあらじ物を。経宗・惟方にかたく申ふくめたれば。」との給へば、「其人共のはからひとこそきこえ候へ。」と申されければ、いそぎ一品御書所へまいられたれども、上皇もおはしまさず。「まさしく暁まで御をとなひのありつる物を。」との給へども、おはしまさず。上皇御出のとき、北面の侍、平左衛門尉泰頼は、骨ある者なれば、めして御寝所にをかせ給ひけるが、御まなびをたがはず申ける也。はるかにのびさせ給ひぬらむとおぼえし時、御寝所を三度おがみて出ける也。「かゝる不思議なかりせば、泰頼ほどの下臈がいかでか御寝所へはまいるべき。」とぞ申ける。 黒戸の御所へ参られけれども、主上もわたらせ給はず。手を打てはしりかへり、「此事披露なし給ひそ。」と中将の耳にさゝやき給ふぞ哀なる。さて別当を尋らるゝもなく、新大納言もおはせねば、此者どもにだしぬかれにけりとて、大の男のふとりせめたるが、いかりにいかりて、おどりあがり<、陸梁せられけれども、板敷のみひゞきて、おどり出せる事もなし。 別当惟方は、元来信頼卿のしたしみにて、契約ふかかりしかども、一日舎兄左衛門督の諌言、きもにそみておもはれければ、かやうに主上をぬすみいだしまいらせられけり。此人は、生得勢ちいさくおはしければ、小別当とぞ人申ける。それに信頼卿にくみして、院・内ををしこめ奉る中媒をなし、今又ぬすみいだしまいらする中媒せられければ、時の人、中小別当とぞいひける。大宮左大臣伊通公は、「此中は、中媒の中にてはあらじ。忠臣の忠にてぞあるらん。光頼の諌によ(っ)て、たちまちにあやま(っ)てあらため、賢者の余薫をも(っ)て、忠臣のふるまひをなせば。」とぞの給ひける。 悪源太義平、賀茂へまいりけるが、道にてこのよしをきゝ、いそぎはせかへり、義朝にむか(っ)て、「行幸は六はらへ、御幸は仁和寺へと承候はいかに。」と申されければ、「されば只今此よしきゝつれども、右衛門督のかたよりも、未なに共つげしらせず。さりながら、源氏のならひ、心がはりやあるべき。こもる勢をしるせや。」とて、内裏の勢をぞしるされける。 大将軍には悪右衛門督信頼・子息新侍従信親・信頼の舎兄兵部権大輔基家・民部権少輔基通・弟の尾張少将信俊、その外、伏見源中納言師仲・越後中将成親・治部卿兼通・伊与前司信員・壱岐守貞知・但馬守有房・兵庫頭頼政・出雲前司光泰・伊賀守光基・河内守季実・子息左衛門尉季盛、一門には、まづ左馬頭義朝・嫡子鎌倉悪源太義平・次男中宮大夫進朝長・三男右兵衛佐頼朝・義朝の伯父陸奥六郎義隆・義朝の弟新五十郎義盛・従子佐渡式部大夫重盛・平賀四郎義宣、郎等には鎌田兵衛政清・後藤兵衛真基・佐々木源三季義、熱田大宮司太郎は、義朝にはこじうとなれば、我身はのぼらね共、家子・郎等さしのぼす。三河国住人には、重原兵衛父子、相模国には、波多野次郎義通・荒次郎義澄・山内須藤刑部尉俊通・其子瀧口俊綱、武蔵国には、長井斉藤別当実盛・岡部六弥大忠澄・猪俣小平六範綱・熊谷次郎真実・平山武者所末重・金子十郎家忠・足立右馬允遠元・上総介八郎弘常、常陸国には、関次郎時貞、上野国には、大胡・大室・大類太郎、信濃国には、片切小八郎大夫景重・木曾中太・弥中太・常葉井・榑・強戸次郎、甲斐国には、井澤四郎信景をはじめとして、宗徒の兵二百人、あひしたがふ軍兵二千余騎とぞしるされける。 六波羅の官軍よすると聞えければ、人々物具せられけり。惑右衛門督信頼は、赤地のにしきのひたゝれに、むらさきすそごの鎧に、菊のすそ金物を打たるに、金作の太刀をはき、白星の甲の鍬形う(っ)たるを猪頸にきなし、紫震殿の額の間にしりをかけてぞゐ給ひける。生年廿七、大の男のみめよきが、美麗の武具はき給ひたり、其心こそしらね共、あ(っ)ぱれ大将やとぞみえたりける。馬は奥州の基衡が、六部一の馬とて秘蔵しけるを、院へまいらせけるなり。くろき馬のふとくたくましきが、八寸あまりなるに、いかけぢの金伏輪のくらをいて、左近の桜の木のもとに、東がしらに引(っ)立たり。越後中将成親は、紺地のにしきのひたゝれに、萌黄匂のよろひに、鴛のすそ金物打たるに、長伏輪の太刀をはき、龍頭の冑をぞきける。白蘆毛なる馬に、白伏輪の鞍をいて、信頼卿の馬の南に、同かしらにひ(っ)たてたり。成親今年廿四歳、容儀ことがら人にすぐれてぞ見えられける。 武士の大将左馬頭義朝は、赤地のにしきのひたゝれに、黒糸縅のよろひに、鍬形う(っ)たる五枚甲の緒をしめ、いか物作の太刀をはき、黒羽の失負、節巻の弓も(っ)て、黒葦毛なる馬にくろ鞍をかせて、日花門にぞひ(っ)たてたる。年卅七、眼ざし・つらたましゐ、自余の人にはかはりたり。嫡子悪源太義平は、生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八う(っ)て付たる鎧をきて、高角のかぶとのをゝしめ、石切と云太刀をはき、石打の矢負、滋藤の弓も(っ)て、鹿毛なる馬のはやり切(っ)たるに、鏡くらをかせて、父の馬と同かしらにひ(っ)たてたり。次男中宮大夫進朝長は十六歳、朽葉のひたゝれに、沢潟とて、沢おどしにしたる重代のよろひに、星白の甲を着、うすみどりといふたちをはき、しら篦に白鳥の羽にて作だる矢負、所藤の弓も(っ)て、あしげなる馬に白覆輪のくらをいて、兄の馬にひ(っ)そへてこそ立たりけれ。三男右兵衛佐頼朝は十三、紺の直垂に源太が産衣といふ鎧を着、星白の甲のをゝしめ、髭切といふ太刀をはき、十二さしたる染羽の失負、滋藤の弓も(っ)て、栗毛なる馬に柏みゝづくすりたる鞍をいて、是も一所にひ(っ)たてたり。 此産衣・髭切は、源氏の重代の武具の中に、ことに秘蔵の重宝なり。八幡殿のおさな名を源太とぞ申ける。二歳のとき、院より、「まいらせよ、御覧ぜん。」と仰を蒙り給て、わざと鎧をおどし、袖にすへてぞ見参に入られける。さてこそ源太が産衣とは付られけれ。胸板に、天照大神・正八幡大菩薩と鋳つけまいらせ、左右の袖には、藤の花のさきかゝりたる様をおどせる也。さて鬚切と申は、八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作也。昔より嫡々に相伝せしかば、悪源太こそつたへ給べきに、三男なれ共、頼朝さづかり給けるは、つゐに源氏の大将となり給ふべきしるし也。兵衛佐、父義朝・兄義平のかたをみまはして、「平家やはや向ひ候らん。人にさきをせられむより、先六波羅へよせ候はん。」と申されけるは、抜郡にぞきこえし。鳳凰は卵の中にして、超境のいきほひあり。龍の子はちいさしといへ共、よく雨をふらすとも、か様の事をや申べき。 比は平治元年十二月廿七日、辰の刻計の事なるに、昨日の雪きえのこり、庭上は玉をしくがごとくなるに、朝日の光映徹して、物具の金物かゝやきわたりて、殊に優にぞみえたりける。凡其事柄、天竺・震旦はそもしらず、日本我朝にをいては、義朝の一類にまさるべき武士は、あるべしとも見えざりけり。然に頼政・光泰・光基も、心がはりして見えければ、義朝うたばやと思はれけれども、大事の前の小事、敵に利をつくるはしなれば、思ひとゞまり給けり。義朝の給ひけるは、「今度の合戦若打負なば、東国へ馳下り、八ヶ国の家人をもよほしあつめて、重て都にせめ上り、平氏の一類をほろぼさん事、何の子細か有べき。」と申されしかば、此人々は皆、保元におほくの弟どもをほろぼすのみならず、正しく父の首をはねし人なれば、しらず是や運のきはめならんと、内々申されけるが、君六はらに行幸なりぬときこえし後は、朝敵と成なん事をかなしみて、つゐにはみな心がはりせられけるなり。されば頼政、平家にくはは(っ)て後、六はらよりあら手とてかけ出けるに、義朝、「名をば源兵庫頭とよばれながら、云かひなく、伊勢平氏につき給ふものかな。御辺が二心によ(っ)て、当家の弓矢の疵つきぬるこそ口おしけれ。」といひかけられし返事に、「累代弓矢の芸をうしなはじと十善の君につき奉る。全二心にあらず。御辺が信頼といふ日本一の不覚仁に同意して、あやまりをあらためぬこそ、まことに当家の恥辱なれ。」と申されける。