去ほどに信頼卿は、すてられて、八瀬の松原より取(っ)て返されけり。それまでは侍ども五十騎ばかり有けるが、「此殿は人に頬をうたれて、返事をだにもし給はねば、侍の主には叶ひがたし。行末もさこそおはせめ。」とて、ちり<”に落ゆきしかば、乳母子の式部大夫ばかりにぞ成にける。余りにつかれてみえ給へば、ある谷川にて馬よりいだきおろし、干飯あらひてまいらせけれども、今朝の時のこゑにおどろきて後は、胸ふたがりて、つをだにもはか<”しくのみ入給はねば、まして一口もえめさゞりけり。又馬にかきのせて、「いづくへかいらせ給はん。」と問奉れば、「仁和寺殿へ。」との給ふ間、連台野へぞ出にける。爰に山法師の死したるを葬して帰る者どもにぞゆきあひける。法師原是をみて、「此夜中にしのびてとをるは、落人の帰り来るにてぞ有らん。討とゞめ物具はげ。」とのゝしりければ、式部大夫とりあへず、「是は六はらより落人を追て長坂へ向ふて候が、敵ははやおちのびて候間、帰りまいるに、くらさはくらし、御方の勢に追をくれて侍なり。」とこたへければ、さもあるらんとや思ひけん、すでにとをすべかりけるに、法師一人笠じるしを見んとや思ひけん、「まことしからず、野伏もなくて。」とて、続松ふりあげて近づけば、信頼さきにうたれけるが、あはやとおどろきて、おつるともなく馬よりおり、物具ぬぎ捨て、鎧直垂より小具足・太刀・刀・馬鞍までとりやかな(う)て、「命ばかりをばたすけ給へ。」とて、手を合られければ、式部大夫もはがれてけり。それより大白衣にて、はうはう仁和寺殿へまいり、昔の御めぐみの名残なれば、御助ぞあらんずらんとて、頸をのべて参たる由申入られたり。しかのみならず伏見源中納言師仲卿もまいり、越後中将成親も参られけり。 上皇もとよりふびんにおぼしめさるゝ人々なれば、かたはらにかくしをかれて、先主上へ、「信頼をば助させたまへ。」と御書をまいら(っ)させ給ひしか共、あへて御返事もなかりければ、重て、「愚老をたのみてまいりたる者どもなれば、まげてたすけをかせ給へ。」と申させ給ふ。御使も未かへらざるに、三河守頼盛・淡路守敦盛、両大将にて三百余騎仁和寺にをしよせて、信頼をはじめて、上皇をたのみまいらせてまいりあつまりたる謀叛の輩、五十余人めしと(っ)てかへられけり。越後中将成親朝臣は、嶋摺の直垂のうへに縄付て、六波羅の馬屋の前に引すへられておはしけり。既に死罪にさだまりたりしを、重盛今度の勲功の賞に申かへて、あづかり給ひける也。此中将、院の御気色よき人にて、院中の事申さたせられけるが、重盛出仕のたびごとに、芳心せられけるゆへ也となん。されば人はなさけ有べき事にや。 信頼卿をば、門前に引すへ、左衛門佐して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、重盛、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、清盛、「今度の謀叛の本人なり。上皇の申させ給へども、君もきこしめし入ず、いかでか私にはゆるすべき。はやく死罪にさだまりぬ。とう<きれ。」との給へば、左衛門佐、此上は力及ばずとてたゝれけり。 やがて六条河原にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、重盛はさばかりの慈悲者とこそきゝつるに、などや頼信をば申助給はぬやらん。」とて、起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、松浦太郎重俊切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。年来院のきり人にて、諸人の追従をかうぶり、去 十日より内裏に侍て、さま<”のひが事をなし給ひしかば、百官龍蛇の毒をおそれ、万民虎狼の害をなげきしに、今日のありさまは、乞食・非人にも猶おとりたりとぞ、見物の諸人申あへる。彼左納言右大史、朝に恩をうけてゆふべに死をたまはると、白居易のかきしも、ことはりかなとぞおぼえし。 こゝに齢七十ばかりなる入道の、柿の直垂に文書ぶくろ頸にかけたるが、平足駄はき、鹿杖つき、市のごとく立こみたるおほくの人を、かきわけ<ゆきければ、右衛門督のとしごろの下人、主の死骸をおさめんとするにやと見る所に、さはなくて、むくろをはたとにらみ、「をのれは。」とて、持たる杖にて二打三うち打ければ、見物の諸人、「こはいかに。」といふに、此入道がいはく、「相伝の所領を無理にをのれに押領せられ、おほくの所従をうしなひ、我身をはじめて子孫どもに飢寒の苦痛みせつるは、をのれが所行にあらずや。かゝるひが事の積りによ(っ)て、いますでに首をきられ、入道が目の前に恥をさらすぞ。われいきて汝が死骸をうつ。わが杖は死してよもいたまじ。獄卒のしもとは今こそあたるらめ。魂魄もしあらば、たしかに此詞をきけ。大弐殿の御嫡子左衛門佐殿は、有道のきこえましませば、此文書見参にいれて、本領安堵して、をのれが草の陰にて見んずるぞ。思へば猶にくきぞ。」とて又一枚うちてぞ帰りける。 温野に骨を礼せし天人は、平生の善をよろこび、寒林に骸をうちし霊鬼は、前世の悪をかなしむとも、かやうの事をや申べき。彼老者は、丹波国の在庁、監物入道なにがしといふ者なり。無念におもひけん事はさる事なれ共、あまりなるふるまひかなとて、にくまぬ者ぞなかりける。切手帰りければ、人々信頼の最後のさま尋らるゝに、「哀なる中にもをかしかりしは、軍の日、馬よりおちて、鼻のさきをつきかきし跡、八瀬にて義朝にうたれし鞭目、左のほうさきにうるみてありしぞ、見ぐるしかりし。」など面々沙汰しけるを、大宮の左大臣伊通公きゝ給ひて、「一日の猿楽に鼻をかくといふ世俗のことばこそあるに、信頼は一日の軍に鼻をかきけり。」との給しかば、みな人興にぞ入られける。