平治物語 - 15 待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事

 六波羅の皇居には、公卿僉議あ(っ)て清盛をめされけり。紺の直垂に黒糸縅の腹巻に、左右の籠手をさして、おりゑぼし引(っ)たてゝ大床にかしこまる。頭中将実国をも(っ)て仰下されけるは、「王事脆事なければ、逆臣ほろびんことうたがひなし。但たま<新造の内裏也。もし回禄あらば、朝家の御大事たるべし。官軍いつは(っ)て引しりぞかば、凶徒さだめて進いでん歟。しからば官軍を入かへて、内裏を守護せさせ、火災なきやうに思慮あるべし。」と仰下されければ、清盛かしこま(っ)て、「朝敵たるうへは、逆徒の誅戮は掌の中に候間、時刻をめぐらすべからず。然らば定て狼籍出来せんか。火失なからん条こそ、難義の勅定にて候へ。さりながら、苑蠡が呉国をくつがへし、張艮が項羽をほろぼせしも、みな智謀のいたす所なれば、涯分武略をめぐらして、金闕無為なるやうに成敗仕るべし。」と奏していでられけり。 主上御座あれば、皇居の御かために清盛をばとゞめらる。大内へ向ふ人々には、大将軍は左衛門佐重盛・三河守頼盛・淡路守教盛、侍には筑後守家貞・子息左衛門尉貞能・主馬判官盛国・子息右衛門尉盛俊・与三左衛門尉景安・新藤左衛門家泰・難波次郎経遠・同三郎経房・妹尾太郎兼安・伊藤武者景綱・館太郎貞泰・同十郎貞景を始として、都合其勢三千余騎、六波羅をうち出て、賀茂河をはせわたし、西の河原にひかへたり。 左衛門佐重盛は生年廿三、今日のいくさの大将なれば、赤地のにしきの直垂に、櫨の匂ひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)たるに、龍頭の冑の緒をしめて、小烏といふ太刀をはき、切府の失負、滋藤の弓も(っ)て、黄鴾毛なる馬に、柳桜摺(っ)たる貝鞍をかせて乗給へり。重盛の給ひけるは、「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相應せり。敵をたいらげん事、何のうたがひかあるべき。誰か爰に樊噲・張良がいさみをなさざらん。」とて、三千余騎を三手にわけて、近衛・中御門・大炊御門より、大宮面へかけ出て、陽明・待賢・郁芳門へをしよせたり。 大内には、三方の門をばさしかため、東面の陽明・待賢・郁芳門をばひらかれたり。昭明・建礼の脇の小門をもともにひらきて、大庭には馬どもおほく引(っ)たてたり。梅坪・桐坪・竹のつぼ・籬がつぼ、紫震殿の前後、東光殿のわきのつぼまで、兵ひしとなみゐたり。これ皆源氏の勢なれば、白旗廿余流う(っ)たてたり。大宮面には、平家の赤旗卅余ながれさしあげて、いさみすゝめる三千余騎、一度に時をどつとつくりければ、大内もひゞきわた(っ)ておびたゝし。時の声におどろきて、只今までゆゝしくみえられつる信頼卿、顔色かは(っ)て草の葉のごとくにて、南階をおりられけるが、膝ふるひており兼たり。人なみ<に馬にのらんと引よせさせたれ共、ふとりせめたる大の男の、大鎧はきたり、馬は大きなり、乗わづらふうへ、主の心にも似もにず、はやり切(っ)たる逸物なれば、つと、いでん<としけるを、舎人七八人寄(っ)て馬をかゝへたり。はなたば天へもとびぬべし。穆王八疋の天馬の駒も、かくやと覚ゆる計にて、のりかね給ふ所を、侍二人つとより、「とくめし候へ。」とてをしあげたり。あまりにやをしたりけむ、弓手のかたへ乗こして、伏ざまにどうどおつ。いそぎ引おこしてみれば、顔にいさごひしとつき、鼻血ながれて見ぐるしかりけり。義朝此体をみて、日比は大将とておそれ給ひけるが、はたとにらみて、「あの信頼と云不覚仁は臆したるな。」とて、日花門を打出て、郁芳門へむかはれければ、信頼も鼻血をしのごひ、とかうして馬にかきのせられ、待賢門へむかはれけるが、物の用にあふべし共見えざりけり。 左衛門佐重盛、五百騎をば大宮面にのこしをき、五百騎にてをしよせて、よばゝり給ひけるは、「此門の大将軍は信頼卿と見るはひがめ歟。かう申は桓武天皇の苗裔、太宰大弐清盛が嫡子、左衛衛門佐重盛、生年廿三。」と名乗懸ければ、信頼返事にも及ばず、「それふせげ、侍共。」とて引しりぞく。大将の引給ふ間、防侍一人もなし。我さきにとにげければ、重盛弥いさみて、大庭の椋木の下迄せめ付たり。義朝是をみて、「悪源太はなきか。信頼といふ大臆病人が、待賢門をはや破られつるぞや。あの敵追出せ。」との給ければ、「承候。」とてかけられけり。つゞく兵には、鎌田兵衛・後藤兵衛・佐々木源三・波多野次郎・三浦荒次郎・須藤形部・長井斉藤別当・岡部六弥太・猪俣小平六・熊谷次郎・平山武者所・金子十郎・足立右馬允・上総介八郎・関次郎・片切小八郎大夫、已上十七騎、くつばみをならべて馳向ひ、大音声をあげて、「此手の大将は誰人ぞ。名のれきかん。かう申は清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也。生年十五のとし、武蔵国大蔵の軍の大将として、伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。とし積(っ)て十九歳、見参せん。」とて、五百騎の眞中へ破(っ)ていり、西より東へ追まくり、北より南へ追まはし、たてさま横さま十文字に、敵をさ(っ)とけちらして、「葉武者どもにめなかけそ。大将軍を組でうて。櫨のにほひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)て、黄月毛の馬に乗(っ)たるこそ重盛よ。をしならべて組でおち、手取にせよ。」と下知すれば、大将をくませじと、ふせぐ平家の侍ども、与三左衛門・新藤左衛門を始として、百騎ばかりのうちにぞへだゝりける。悪源太を始として、十七騎の兵ども、大将軍に目をかけて、大庭の椋木を中にたてて、左近の櫻、右近の橘を七八度まで追まはして、くまん<とぞ揉だりける。十七騎に懸立られて、五百余騎かなはじとや思ひけん、大宮面へさ(っ)と引。大将左衛門佐は弓杖ついて、馬の息をつかせ給ふ所に、筑後守つと参て、「曩租平将軍の、ふたゝび生かはり給へる君かな。」と、向様にほめ奉れば、今一度かけて家貞にみせんとや思はれけん、前の五百騎をばとゞめをきて、荒手五百騎を相具して、又大庭の椋の木の本までせめよせたり。 又悪源太かけむかひ、見廻していひけるは、「只今向たるは、皆あら手の兵なり。但大将は、もとの大将重盛ぞ。已前こそもらすとも、今度にをひてはあますまじ。押ならべて組でとれ、兵共。」と下知すれば、いさみにいさみたる十七騎、われさきにと進ければ、今度は難波次郎・同三郎・妹尾太郎・伊藤武者を始として、百余騎、中にへだてたるに事ともせず。悪源太弓をば小脇にかいはさみ、鐙ふんばりつい立あがり、左右の手をあげ、「幸に義平源氏の嫡々なり。御辺も平家の嫡々也。敵にはたれかきらはん。よれや。くまん。」といふまゝに、さきのごとく大庭の椋の木のもとを追まはして、五六度までこそ揉だりけれ。重盛くみぬべうもなくやおもはれけん、又大宮面へひいていづ。悪源太二度まで敵を追まくり、弓杖ついて馬にいきをつかせけるに、義朝是をみて、須藤瀧口をも(っ)て、「汝が不覚にふせげばこそ、敵度々懸いるらめ。あれすみやかに追出せ。」といひつかはされければ、俊綱はせて此由をいふに、「承候。すゝめや、者共。」とて、色もかはらぬ十七騎、大宮面にかけ出て、敵五百余騎が中へ、面もふらず破(っ)ている。そびき立(っ)たる勢なれば、馬のあしをたてかねて、大宮をくだりに、二条を東へひきければ、「我子ながらも義平は、能かけたる者かな。あ(っ)かけたり。」とぞほめられける。 大将重盛・与三左衛門景安・新藤左衛門家泰・主従三騎は懸はなれ、二条を東へひかれければ、悪源太、鎌田にき(っ)と見合て、「爰におつるは大将とこそ見れ、返せやかへせ。」とて追懸たり。すでに堀川にて追(っ)つめけるが、弓手のかたに材木おほく充満たるに、悪源太の乗給へる馬、かたなつけの駒にて、材木にやおどろきけん、妻手のかたへけしとんで、小膝を折てどうどふす。鎌田兵衛延さじと、十三束取(っ)てつがひ、能引てひやうどいる。重盛の射向の袖に、はたとあた(っ)てとびかへる。やがて二の矢を射たりければ、をしつけにちやうど当(っ)て、のかつきくだけておどりかへれり。悪源太、「是はきこゆる唐皮といふ鎧ごさんなれ。馬を射ておちん所をうて。」と下知せられければ、又能引て追様を、はずのかくるゝ程いこうだり。馬は屏風をかへすごとくたふるれば、材木のうへにはねおとされ、冑もおちて大わらはになり給ふ。鎌田堀川をはせこして、重盛にくまんとおちあふたり。重盛近付てはかなはじとや思はれけん、弓のはずにて鎌田が甲の鉢をちやうどつく。つかれてゆらゆる間に、冑をと(っ)てうちきつゝ、緒をつよくこそしめられけれ。 与三左衛門馳よせて、中に隔てゝ申けるは、「漢の紀信は高租の命にかは(っ)て、栄陽のかこみを出だし、つゐに天下をたもたせき。主はづかしめらるゝ時、臣死すと云にあらずや。景安こゝにあり。よれや。くまむ。」といふまゝに、鎌田兵衛と引(っ)くんで、取(っ)てをさへける処に、悪源太馬引おこし、是も堀川をはせこして、重盛にくまんと飛でかゝりけるが、鎌田をやたすくる、大将をやうたむと思案しけれ共、大将には、又もよせあふべし、政家をうたせては叶はじと思ひ、与三左衛門におちあふて、三刀さして頸をとる。重盛は頼み切(っ)たる景安うたせて、命いきても何かせんとて、既に悪源太とくまんとせられけるを、新藤左衛門はせ来り、「家泰が候はざらん所にてこそ、大将の御いのちをば捨給ふべけれ。延させ給へ。」とて、我馬をひきむけ、中にへだてゝ悪源太とむずとくむ。政家は重盛にくまんとしけるが、主を打せては叶はじと思ひければ、新藤左衛門におちかさな(っ)て、取(っ)てをさへて、頸をかく。此ひまに、重盛は虎口をのがれて、六波羅迄ぞおちられける。二人の侍なからましかば、たすかりがたき命也。十二月廿七日の巳の刻計の事なるに、一村雨さ(っ)として、風ははげしく吹たりけり。物具氷てすべりけり。鎌田が鞍の前輪にも、つららゐたれば乗かねけり。悪源太是を見給ふて、「手がたを付てのれや。」との給ければ、打物ぬいて、つぶつぶと手形を切てぞ乗(っ)たりける。鞍に手がたをつくる事、此時よりぞはじまれる。 三河守頼盛は、郁芳門へ押よせて、「此陣の大将は誰人ぞ。名のられ候へ。」との給へば、「此手の大将は、清和天皇九代の後胤、左馬頭源朝臣義朝。」と名乗(っ)て、「悪源太は二度まで敵を追出すぞかし。すゝめや、若者。」との給へば、中宮大夫進・右兵衛佐・新宮十郎・平賀四郎・佐渡式部大夫重成を姶として、我も<と懸られけり。右兵衛佐頼朝は、「生年十三。」と名乗(っ)て、敵二騎射おとし、一騎に手負せて、殊にすゝんでかけられけり。左馬頭の給ひけるは、「何といへ共、わかもの共の軍するは、まばらにみゆるぞ。義朝かけてみせん。」とて、眞前にすゝまれければ、一人当千の兵共、うちかこみてぞたゝかひける。 頼盛しばしはさゝへられけるが、門より外へ追出さる。義朝つゞいてせめたゝかへば、大宮おもてへひきにけり。平家馬の気をつがせてかけ入ければ、源氏大内へ引こもり、源氏又馬の足をやすめて懸出れば、平家又大宮面へ引退く。平家は赤旗・赤じるし、日に映じてかゞやけり。源氏は大旗・腰小旗、みなをしなべて白かりけるが、はげしき風にふきみだされ、いさみすゝめるありさまは、まことにすさまじくこそおぼえけれ。源平の兵共、互に命をおしまねば、まのあたりうたるれどもかへり見ず、主のさきにすゝまんと、こゝを前途とたゝかふたり。 悪源太、左衛門佐をばうちもらし、鎌田に向(っ)ての給ひけるは、「郁芳門の軍はいかゞあらん。いざや頭殿の御さきつかまつらん。」とて、打具してはせ来り、又眞前にぞすゝまれける。爰に鎌田が下人に、八町次郎とて、大力の剛の者、早走の手きゝあり。「馬にてこそ具すべけれ共、中々かちだちよかるべし。高名せよ。」といひければ、一とせも腹巻に小具足さしかためて、眞前に進みたりけるが、敵の馬武者のはるかにさき立て落けるを、八町が内に追攻て、取て引おろして、頸を取たりければ、それよりして八町次郎とぞいひける。されば又此者、三河守のきこゆる早走の名馬に、両鐙をあはせて懸られけるに、すこしもおとらず追付て、冑の手返に熊手をうちかけん<と、つゞひてはしりければ、頼盛も甲を打かたぶけ<、あひしらはれければ、五六度はかけはづしけるが、つゐに手返にうちかけて、ゑいやとひけば、三河守既にひきおとされぬべう見えられけるが、帯たる太刀を引ぬいてしとゝきる。熊手の柄を手本二尺計をきて、つんど切(っ)ておとされければ、八町次郎のけにたふれてころびけり。京わらんべ是をみて、「あ(っ)ぱれ太刀や。あ(っ)、きれたり。三河殿もよ(っ)きりたり。八町次郎もよ(っ)懸たり。」とぞ感じける。頼盛は冑に熊手を切かけながら、とりもすてず、見もかへらず、三条を東へ、高倉を下りに、五条を東へ、六はらまで、からめかして落られけるは、中に、ゆうにぞみえたりける。名誉の抜丸なれば、よくきれけるはことはり也。 此太刀を抜丸といふゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。此太刀まくらのうへに立たりけるが、みづからするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池にしづむ。太刀もさやにかへりしかば、蛇又出てのまんとす。太刀又ぬけて大蛇を追て、他の汀に立て(ん)げり。忠盛是をみ給てこそ、抜丸とはつけられけれ。当腹の愛子によ(っ)て、頼盛是を相伝し給ふ故に、清盛と不快なりけるとぞきこえし。伯耆国大原の眞守が作と云々。 三河守をおとさんとふぜきたゝかふ侍には、大監物・小監物・藤左衛門尉助綱、兵藤内が子、藤内太郎家継を始として、われも<と戦けり。兵藤内家俊は、もとより大臆病のおぼえとりたる者也けるが、ちからなく大勢の中にけたてられて、心ならずはせゆきけるが、馬を射させて幸とや思ひけん、小屋の内へにげいりぬ。其子の家継は、父には似ず大剛の者にて、散々にたゝかひ、敵あまた討取て引けるが、父が馬は射られてふしぬ、主はなし、いけどられにけりと無念なれば、家継いきてなにかせんとて、只一人取(っ)て返し、おほくの敵をきりふせて後、ある兵と引(っ)組でおち、指ちがへて死けるを、家俊まのあたり小屋のうちにて見ゐたりければ、心うくかなしくて、はしりいでんとは思へども、戦場なればおそろしくて、子うたるゝを見つがざりけり。後日に六波羅へまいりけるをみて、にくまぬ者ぞなかりける。 平家は勅定にまかせて、みな六はらへ引返す。源氏は謀ともしらざりけるにや、大内をば打捨て、追懸々々、小路々々に攻たゝかふ。其間に官軍を入かへて、門々をかたくふせぎければ、源氏内裏へはいりえずして、そゞろに六波羅へぞよせたりける。斉藤別当と後藤兵衛とは、おほくの敵を追かへして、東三条辺にひかへたるに、武者二騎はせ来り。実盛まづ一騎の武者に懸あはせ、「わぎみ、たそ。」と問ば、「安芸国住人、東条の五郎。」と名のる所を、能引て射おとし、其首を取て、「これはいかに、後藤殿。」といへば、眞基も、一騎の武者にはせむかひ、「御辺は誰そ。」ととへば、「讃岐国の住人、大木戸の八郎。」と名のりもはてねば、しや頸のほね射ておとし、其首取て、「是見給へ、斉藤殿。頭殿の見参にやいるゝ、すてやする。」といひければ、「今朝より乗つからかしたる馬に、なま頸つけて何かせん。いざすてん。」といひけるが、二条堀川まではせ来る。材木のうへに二の首をさしをいて、軍みける在地の者どもにあづけて、「此頸うしなふべからず。」といひふくめて、かけいづれば、失ひてはあしかりなんとて、日くるゝまでふるひ<まもりける也。 右衛門督信頼は、今朝待賢門を破られて後は、いくさの事はおもひもよらず、ひまをもとめておちん<とぞせられける。義朝かけ出て後は、大裏にもしのびずして、御方の勢の跡に付て、おづ<河原まで出られけるが、六波羅へはよせずして、引ちがへて、河原をのぼりにおちられけり。金王丸是をみて、「右衛門督殿こそ落させ給へ。追懸まいらせん。」と申せば、義朝、「たゞをけ。あれ体の不覚人あれば、中々いくさがせられぬぞ。」とて、河原をくだりによせられけり。