子息新侍従信親を、大弐清盛の聟になして近づきより、平家の武威をも(っ)て本意をとげんと思ひけるが、清盛は大宰大弐たるうへ、大国あまたたまは(っ)て、一族みな朝恩をかうぶり、うらみ有まじければ、よも同意せじとおもひとゞまる。左馬頭義朝こそ、保元の乱以後、平家におぼえおと(っ)て、やすからず存ずる者と思はれ、近づきて懇に志をぞかよはしける。つねに見参の度には、「信頼かくて候へば、国をも庄をも望み、官加階をも申されんに、天気よも子細あらじ。」とのたまふ。「かやうに御意に懸られ候条、身に取て大慶なり。いかなる御大事をも承て、一方はかため申さん。」とぞの給ひける。しかのみならず、当帝の御外戚、新大納言経宗をもかたらひ、中御門藤中納言家成卿の三男、越後中将成親朝臣は、君の御けしきよき者也とかたらひ、御乳人の別当惟方をもたのまれけり。中にも此別当は母方の叔父なりしに、我弟尾張少将信俊を聟になして、ことさらふかくぞちぎられける。 かやうにしたゝめめぐらして、隙をうかゞはれける程に、平治元年十二月四日、大弐清盛宿願ありとて、嫡子左衛門佐重盛あひぐして、熊野参詣の事あり。其ひまをも(っ)て信頼卿義朝をまねき、「信西は紀伊の二位の夫たるによ(っ)て、天下大小事を心のまゝに申おこなひ、子どもには官加階ほしいまゝになしあたへ、信頼がかたさまの事をば、火をも水に申なす。讒侫至極のひがもの也。此入道久しく天下にあ(っ)ては、国もかたぶき世もみだるべきわざはひのもとひなり。君もさはおぼしめしたれども、させる次もなければ、御いましめもなし。いさとよ、御辺始終はいかゞあらん。大弐清盛もかれが縁となりて、源氏の人々をば申しづめんとするなどこそうけ給はれ。よきやうにはからはるべき物を。」とかたれば、義朝申されけるは、「六孫王より七代、弓箭の芸をも(っ)て、いまに叛逆の輩をいましめ、武略の術をつたへて、凶徒をしりぞけ候。しかるに去ぬる保元に、門葉の輩おほく朝敵と成て、親類みな梟せられ、已上義朝一人にまかりなり候へば、清盛も内々はさぞはからひ候らん。これらはもとより覚悟の前にて侍れば、あながちおどろくべきにては候はね共、かやうにたのみ仰候うへは、便宜候はゞ、当家の浮沈をもこゝろむべしとこそ存候へ。」と申されければ、信頼大によろこんで、いか物づくりの太刀一腰みづからとりいだし、且は悦の始とてひかれたり。義朝謹で請取て出られけるに、しろくくろく、さる体なる馬二疋、鏡鞍をいて引(っ)たてたり。夜陰の事なれば、松明ふりあげさせて、此馬を見、「合戦の出立に、馬程の大事は候はず。近此の御馬にて、此龍蹄をも(っ)て、いかなる強陣なりとも、などかやぶらで候べき。合戦は勢にはよらず、はかりことをも(っ)てすといへ共、小をも(っ)て大に敵せず共申せば、頼政・光泰・光基・季実等をもめされ候へ。其うへこれらをはじめて、源氏共、内々申むねありと承り候。」と申して出られければ、信頼卿、月比日比こしらへをかれたる兵具なれば、おどし立たる鎧五十領、追様につかはされけり。