又、保元々年の春のころ、比叡山へ御幸なる。山門には、大師修禅定の具足どもあり。名字を御尋ありけるに、大衆ども、公家の才学をはからむとやおもひけん、「我山の財にて候へ共、まさしく名字をしりたる者候はず。」と、一同に申ければ、法皇、先年熊野にて、信西不思議の才学をふるひしかば、もしこれをもや知たるらんとて、めし出されければ、御前にまい(っ)てかしこまる。 先「一の箱の修禅定の具足の中に、勢手鞠ばかりにして、音ある物あり。是はいかに。」と御尋あれば、「禅鞠と申候。止観の第四巻にみえたり。たとへば、大師禅定のとき、ねぶりあれば、是を頂上にをく。ねぶればをのづからおつ。落れば音あり。かるがゆへに眠のさむる也。」「又二尺四五寸ばかりなる木のさきに、勢大柑子ばかりにして、やはらかなる物あり。」「大師修禅定の時、御身くるしき事おはしませば、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。是を禅杖といふ。」「二尺計ある木を、かせのごとくにちがへて、さきごとにきぬをかけてねりたる物あり。」「大師座禅に御むねいたむとき、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。助老と是をいふ。」「又枕に似たる物あり。」「その名を頭子と云。くはしくは梵網経にみえたり。これらを四種の物といふなり。」「第十九の箱は。」「下野国字佐の宮の御殿におさめらる。乙護法使者たり。明神あながちにおしませ給へば、人はいかでかしるべきなれども、或は宇賀神の法をこめ、或は陀天の法をこめ、大師手印をも(っ)て封ぜらると云々。不空絹索人骨の念珠も、此箱にありとかや。凡延暦寺は、大師最初の伽藍なり。大講堂は、深草の天皇の御願、延命院・四王院は、文徳・朱雀の御願也。法華堂には、大師三代の御経もまします。五台山の香の火、清涼山の土もあり。前唐院には、大師の御脇息・香爐もあり。御影もおはします。其外、弘仁五年の春、大師九州宇佐の宮にまふで、法花の眞文を講じ給ひしかば、大菩薩みづから斉殿をひらき、手づから大師にさづけ給ひしむらさきの袈裟には、光明赫々として、八幡三所もおはします也。天竺の多羅葉、法全和尚の独鈷、焦熱地獄よりとり伝へたる泗濱石も、当山にこそ候へ。しかのみならず、三十番神の守護し給ふ根本の椙の洞、飯室の五つ坊の谷までも、うちならす鐘のひゞきのしけるにこそ、人ありとはしられけれ。」と、三塔の秘事どもを、一々に申ければ、君を始まいらせて、三千衆徒、奇異のおもひをなしにけり。 還御の後も、卿上雲客、信西が宏才の程を感じ申されけるに付て、四方山の御物語ぞありける。「さても双六の賽の目に、一が二おりたるをば畳一といひ、二が二おりたるをば重二といふ。五六をも畳五畳六と申す。これみなかさなる義なるに、四三ばかりを、朱三朱四といふこそ心得ね。これを御尋候へかし。」と申されければ、法皇げにもとて、信西をめされて、此よしを仰下されければ、「さん侯。むかしは同じく重三重四と申けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六をあそばしけるに、重三の目が御用にて、朕がおもふごとくに出たらば、五位になすべしとてあそばしければ、重三おりき。楊貴妃又、重四の目をこふて、我こゝろのごとくにおりたらば、ともに五位になすべしとてうち給ふに、重四出たりき。よ(っ)て天子に俗言なし、同じく五位になさんとてなされけるに何をかしるしにすべきといふに、五位は赤衣をきればとて、重三重四の目に朱をさゝれてより以来、朱三朱四とよぶとこそみえて候へ。」と奏しければ、諸卿みなことはりにやと感じあはれける。 されば凡人ならぬにや、死して後も、手には日記をさゝげ、口には筆をふくみ、炎魔の庁にても、第三の冥官につらなりけると、人の夢にも見たりけり。かゝりし人の今頸を獄門にかけらるゝも、保元の合戦に、宇治の悪左府の御墓所、大和国添上郡河上村、般若野の五三昧なりしを、信西の申状によ(っ)て、勅使をたてゝほりおこし、死骸をむなしくすてゝはづかしめられしが、中二年あ(っ)て、平治元年に我とうづみかくされしか共、つゐにほりおこされて、首をきられけるこそおそろしけれ。昨日の他州のうれへ、今日ほ我身のせめとも、かやうの事をや申べき。