さる程に、十日の暁、六波羅よりたちしはや馬、切部の宿にて追付たり。清盛、「いかにぞ。」ととひ給へば、「去ぬる九日の夜、三条殿へ夜討入(っ)て、御所みなやきはらひ候ぬ。少納言入道の宿所もやきはらはれ候。これはたゞ右衛門督殿、左馬頭殿をあひかたら(っ)て、当家をほろぼし奉らんとの、はかりことゝこそ承り候へ。」と申せば、清盛、「いそぎ下向すべきが、是までまい(っ)て参詣をとげざらんも無念也。いかゞすべき。」との給へば、左衛門佐重盛、「熊野参詣も現当安穏の御祈請にてこそ候らめ。其上、君逆臣にとりこめられさせ給へるなり。いかでか武臣として、是をすくひ奉らざらん。神は非礼をうけず。何のくるしみか候べき。いそぎ御下向あるべし。」と申されければ、みな此義にぞ同じける。「それに取て、敵に向(っ)て帰洛せんずる、物具の一領もなきをばいかゞすべき。」となげき給ふ所に、筑後守家貞、長櫃を五十合おもげにかゝせたりしを取よせて、五十領のよろひ、五十腰の矢、其外物具どもを取いだして奉る。「弓はいかに。」とのたまへば、大なる竹朸の中に、ふしをついて入たりければ、則五十張の弓をとりいだせり。やがて家貞は、重目結のひたゝれに、洗革の鎧きて、太刀わきはさみ、「大将軍に仕る者はかうこそ用意すれ。」と申せば、侍共も、「あ(っ)ぱれ高名かな。」とぞ感じける。熊野別当湛増が田辺にありけるに、使をたて給へば、兵廿騎奉る。湯浅の権守宗重、卅余騎にてはせまいれば、彼是百余騎に成にけり。 こゝに悪源太三千余騎にて、安部野に待と聞えければ、清盛、「此無勢にて多勢にあふてうたれん事こそ無念なれ。先これより四国へわたり、勢をもよほして、後日に都へいらばや。」とのたまへば、重盛かさねて申されけるは、「それもさにて候へ共、事延引せば、定而当家対治のよし諸国へ院宣・綸旨をなしかくべし。かへ(っ)て朝敵となりなん後は、後悔すとも益あるまじ。多勢をも(っ)て無勢をうつ事、常の事也。あへて弓矢のきずならず。しかれば無勢なりとも、かけ向(っ)て即時にうち死したらんこそ、後代の名もまさるべけれ。何とか思ふ、家貞。」との給へば、筑後守、「六波羅の御一門も、さこそおぼつかなう思召らむ。いそがせ給へ。」と申せば、清盛も然るべしとて、都をさして引かへす。 大将已下、みな浄衣の上によろひを着、「敬礼熊野権現、今度の合戦ことゆへなくうちかたさせ給へ。」と祈請して、引(っ)懸々々うつほどに、和泉と紀伊国とのさかひなる鬼の中山にて、あしげなる馬に乗(っ)たる者、早馬とおぼしくて、もみにもふで出来たり。すは悪源太が使よと、皆人色をうしなふに、源氏の使にはあらずして、六波羅よりのはや馬なり。「さて六はらはいかに。」と問給へば、「きのふ夜半計に出候しまでは、何事も候はず。幡磨中将殿のたのみて御わたり候しを、内裏より宣旨とて、しきなみにめされ候し間、ちからなく十日のくれほどにいだしまいら(っ)させ給て候。」と申ければ、左衛門佐、「無下にいふかひなき事せられたる人々かな。当家をたのみて来れる人を、敵の手へわたすといふ事やある。かくては御方に勢つきなんや。」とぞいかられける。「さても悪源太が阿辺野にまつといふは、いかに。」ととひ給へば、「其儀はかつて候はず。伊勢国住人、伊藤の兵どもこそ、都へいらせ給はゞ、御供つかまつらんとて、三百余騎にて待まいらせ候つれ。」と申せば、「敵の悪源太にてはあらずして、よきみかたごさんなれ。うてや、者ども。」とて、みな人色をなをして、我さきにとすゝむほどに、和泉国大鳥の宮につきもふ。重盛秘蔵せられける飛鹿毛といふ馬に、白鞍をいて、神馬にひき給へば、清盛一首の歌あり。
かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大鳥の神