平治物語 - 18 義朝敗北の事

 平家追懸てせめければ、三条河原にて鎌田兵衛申けるは、「頭殿はおぼしめす旨あ(っ)て落させ給ふぞ。よく<ふせぎ矢つかまつれ。」といひければ、平賀四郎義宣、引返し散々にたゝかはれければ、義朝かへり見給て、「あ(っ)ぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」との給へば、佐々木の源三・須藤形部・井沢四郎を始として、われも<と眞前に馳ふさが(っ)てふせぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎切(っ)ておとし、我身も手負ければ、近江をさして落にけり。須藤形部俊通も、六条河原にて、瀧口と共に討死せんとすゝみしを、とゞめ給ひしかども、こゝにて敵三騎討取て、つゐにうたれてけり。井澤四郎宣景は、廿四さしたる失をも(っ)て、今朝のたゝかひに敵十八騎討おとし、いまの合戦によき敵四騎射ころしたれば、ゑびらに二ぞ残たる。その後打物に成てふるまひけるが、いた手おふて引にけり。東近江におちて疵療治し、弓うちきり杖につき、山づたひに甲斐の井沢へぞゆきにける。 か様に面々たゝかふ間に、義朝おちのび給ひしかば、鎌田をめして、「汝にあづけしひめはいかに。」との給へば、「私の女に申をきまいらせて候。」と申せば、「いくさに負ておつるときゝ、いかばかり
の事か思らん。中中ころしてかへれ。」との給へば、鞭をあげて、六条堀川の宿所にはせ来てみければ、軍におそれて人ひとりもなきに、持仏堂の中に人音しければ、ゆきて見るに、姫君仏前に経うちよみておはしけるが、政家を御覚じて、「さてそも、軍はいかに。」と問給へば、「頭殿は打負させ給て、東国のかたへ御おち候が、姫君の御事をのみ、かなしみまいら(っ)させ給ひ候。」と申せば、「さては我らも只今敵にさがし出され、是こそ義朝のむすめよなどさたせられ、恥を見んこそ心うけれ。あはれ、たかきもいやしきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なればいくさに出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とてのこしをかれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸をけがさん事こそかなしけれ。兵衛、まづ我をころして、頭殿の見参にいれよ。」とくどき給へば、「頭殿も此仰にて候。」と申せば、「さてはうれしき事かな。」とて、御経をまきおさめ、仏にむかひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つとまいり、ころし奉らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今までおふしたてまいらせたれば、いかでか哀になかるべき。なみだにくれて、刀の立所もおぼえずして、なきゐたりければ、姫君、「敵やちかづくらん、とく<。」と進め給へば、力なく三刀さして御首をとり、御死骸をばふかく納めて馳かへり、頭殿の見参に入たりければ、たゞ一め御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりにしりたまへる僧の所へ、此御頸をつかはして、「とぶらひてたび給へ。」とてぞおちられける。 さる程に、平家の軍兵はせ散(っ)て、信頼・義朝の宿所を始て、謀叛の輩の家々に、をしよせ<火をかけて、やきはらひしかば、其妻子眷属、東西に逃まどひ、山野に身をぞかくしける。方々におち行人々は、我行前はしらね共、跡のけぶりをかへりみて、敵は今や近付らむ、いそげ<と身をもみけり。比叡山には、信頼・義朝うちまけて、大原口へおつるとさたしければ、西塔法師これをきゝて、「いざや落人打とゞめん。」とて、二三百人千束ががけに待かけたり。義朝此由きゝ及び、「都にてともかくも成べき身の、鎌田がよしなき申状によ(っ)て、是までおちて山徒の手にかゝり、かひなき死をせんずるこそ口おしけれ。」とのたまへば、斉藤別当申けるは、「こゝをば実盛とをしまいらせ候はん。」とて、馬よりおり、甲をぬいで手にひ(っ)さげ、みだれ髪を面にふりかけ、近付よ(っ)ていひけるは、「右衛門督、左馬頭殿已下、おもとの人々は、みな大内・六波羅にて討死し給ひぬ。是は諸国のかり武者どもが、恥をもしらず妻子を見んために、本国におち下り候なり。討留て、罪つくりに何かし給はん。具足をめされむためならば、物具をばまいらせ候はん。とをして給はれ。」と申ければ、「げにも大将達にてはなかりけり。葉武者はうちて何かせん。具足をだにぬぎすてば、とをされよかし。」と僉議しければ、実盛かさねて、「衆徒は大勢おはします。われらは小勢なり。草摺を切ても猶及びがたし。なげんにしたがひうばひ取給へ。」といへば、おもてにすゝめる若大衆、「尤しかるべし。」とてあひあつまる。後陣の老僧も、われおとらじと一所によ(っ)て、きほひあらそふ所に、実盛冑をかつぱとなげたりけり。われとらんとひしめきければ、あへて敵の体をも見つくろはざりける処に、卅二騎の兵、打物を抜て、冑のしころをかたぶけ、がはと懸入けちらしてとをりければ、大衆にはかに長刀をとりなをし、あますまじとて追懸ければ、実盛大わらはにて、大の中差取(っ)てつがひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんとおもはゞよれや。手がらの程みせん。」とて、取(っ)て返せば、大衆の中に弓取は少もなし、かなわじとや思ひけん、皆引てぞ帰りける。 義朝八瀬の松原を過られけるに、跡より、「やゝ。」と呼こゑしければ、何者やらんとみ給へば、はるかに前へぞ延ぬらんとおぼえつる信頼卿追付て、「もし軍にまけて東国へおちん時は、信頼をもつれて下らんとこそきこえしか。心がはりかや。」との給へば、義朝余りのにくさに腹をすへかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立(っ)て、一いくさだにせずして、我身もほろび人をもうしなふにこそ。おもてつれなふ物をのたまふ物かな。」とて、もたれたる鞭をも(っ)て、信頼の弓手の頬崎を、したゝかにうたれけり。信頼此返事をばし給はず、誠に臆したる体にて、しきりにむちめををしなで<ぞせられける。乳母子の式部大夫助吉これをみて、「何者なれば、督殿をばかうは申ぞ。わ人ども心の剛ならば、など軍にはかたずして、負ては国へ下るぞ。」といひければ、義朝、「あの男に物ないはせそ。討て捨よ。」との給ひければ、鎌田兵衛、「何条たゞいまさる事の候べき。敵やつゞき候らん。延させ給へ。」とてゆく所に、又横河法師上下四五百人、信頼・義朝のおつるなる、うちとめんとて、龍下越にさかもぎ引、掻楯かいてまち懸たり。 卅余騎の兵、各馬よりとびおり<、手々に逆茂木をば物ともせず、引ふせ<とをる所に、衆徒の中より、さしつめひきつめ散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の頸の骨を射られて、馬よりさかさまにおちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたゝかに射られて、鐙をふみかね給ひければ、義朝、「大夫は失にあたりつるな。つねに鎧づきをせよ。うらかゝすな。」とのたまへば、其矢ひつかなぐつてすて、「さも候はず、陸奥六郎殿こそいた手おはせ給ひ候つれ。」とて、さらぬ体にて馬をぞはやめられける。六郎殿うたれ給へば、頸をとらせて義朝のたまひけるは、「弓矢取身のならひ、軍に負ておつるは、つねの事ぞかし。それを僧徒の身として、たすくるまでこそなからめ、結句うちとめんとし、物具はがんなどするこそ奇怪なれ。にくいやつばら、後代のためしに一人も残さずうてや者ども。」と、下知せられければ、卅余騎くつばみをならべ「懸入わりつけ追まはし、せめつめ<切付られければ、山徒立所に卅余人うたれにければ、のこる大衆、大略手負て、はう<谷々へかへるとて、「此落人うちとゞめんといふ事は、誰がいひ出せる事ぞ。」とて、あれよこれよと論じける程に、同士軍をしいだして、又おほくぞ死にける。誠に出家の身として、落人うちとゞめ、物具うばひとらんなどして、わづかの落武者にかけたてられ、おほくの人をうたせ、又同士軍し出して、あまたの衆徒をうしなふ事、僧徒の法にも恥辱也、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にもそむき、神明にもはなたれ奉りぬとぞおぼえし。 此敵をも追ちらしければ、龍下のふもとにみなおりゐて、馬をやすめられけるが、義朝、後藤兵衛眞基をめして、「汝にあづけをきし姫はいかに。」とのたまへば、「私の女によく<申ふくめて候へば、別の御事は候まじ。」と申けり。「さては心やすけれども、汝これより都へ帰りのぼり、ひめをそだてゝ尼にもなし、義朝が後世菩提とぶらはせよ。」との給へば、「先いづくまでも御供仕り、とも角もならせ給はん御有様を見とつけまいらせてこそ帰りのぼり候はんずれ。」と申せども、「存ずるむねあり。とく<。」との給へば、力及ばずみやこへ帰り、姫君につき奉り、こゝかしこにかくしをきまいらせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保卿の北方になし奉りける也。眞基も鎌倉殿の御時に世に出けるとぞきこえし。