舎人成澤も、おなじくみやこへのぼりけるが、「最後の乗馬なり。紀伊二位にみせ奉らん。」とて、むなしき馬をひいてかへる程に、出雲前司光泰五十余騎にて、信西がゆくゑをたづね来るに、木幡山にてゆきあふ。馬も舎人も見しりたれば、うちふせてとひけるに、はじめはしらずといひけれども、つゐにはありのまゝにぞ申ける。則此男をさきに追(っ)立てゆくほどに、あたらしく土をうがてる所あり。「あれこそそよ。」とをしゆれば、すなはちほりおこしてみれば、いまだめもはたらき息もかよひけるを、首を取てぞかへりける。 出雲前司光泰、信頼卿に此由申せば、同十四日に、別当惟方と同車して、光泰の宿所、神楽岡へゆきむか(っ)て、此首を実検す。必定なれば、やがて明る日大路をわたし、獄門にかけらるべしと定られければ、京の中の上下、河原に市をなして見物す。信頼・義朝も、車をたてゝこれを見る。十五日の午刻の事なるに、晴たる天俄にくれて星いでたり。是を不思議といふ所に、此首、信頼・義朝の車の前をわたる時、うちうなづいてぞとをりける。見る人みな、「只今かたきをほろぼしてんず。おそろし<。」とぞいひける。朝敵にあらざれば、勅定にもあらずして、首を獄門にかけらるゝも、前世の宿業とは申ながら、去ぬる保元に、たえて久しき死罪を申おこなひしむくひかとぞ人々申ける。 さて紀の二位の、おもひあさからず、偕老同穴のちぎりふかかりし入道にはをくれ給ひぬ、僧俗の子共、十二人ながらめしこめられて、死生もいまださだまらず、たのみまいらせつる君も、をしこめられさせ給ひて、月日の光さへはか<”しくは御覧ぜず、我身は女なれ共、信頼のかたへとりいだしてうしなはんと云なれば、つゐにはのがれがたしとぞなげかれける。