平治物語 - 10 光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上著の事

 内裏には、同十九日に、公卿僉議とて、もよほされけり。勧修寺の左衛門督光頼卿、此ほどは信頼卿振舞過分也とて、不参にておはしけるが、参内してうけたまはらんとて、ことにあざやかなる束帯ひきつくろひ、まきゑの細太刀をおとなしらかにはき給ひ、乳母子の桂の右馬允範能に、膚にはらまききせ、雑色の装束に出たゝせ、「自然の事もあらば、人手にかくな。汝が手にかけて、光頼が頸をばいそぎとれ。」とて、御身ちかくをき、其外きよげなる雑色四五人めし具して、大軍陣を張て、所々の門々をかたく守護しけるを事ともせず、さきたからかにおはせて入給へば、兵共も大きにおそれ奉り、弓をひらめ、矢をそばめてとをし奉る。 紫震殿のうしろをへて、殿上をめぐりて、み給へば、信頼卿一座して、其座の上臈達、皆下にぞつかれたる。光頼卿、「こは不思議の事かな。人はいかにふるまふとも、あれは右衛門督、われは左衛門督なれば、下にはつくまじき物を。」と思はれければ、左大弁宰相長方卿、末座の宰相にておはしけるに、「けふの御座席こそ、よにしどけなうみえ侯へ。」と色代して、しづ<とあゆみ、信頼卿の上にむずとつき給ふ。光頼卿は、信頼のためには母方の伯父なるうへ、大力の剛の人なれば、ことにおそれて見えられけり。右の袖のうへにゐかけられて、ふしめになりて色をうしなはれければ、着座の公卿、あなあさましと見給ふに、光頼卿は、下重のしりひきなをし、衣紋つくろひ、笏とりなをし、気色して、「けふは衛府督の一座するとみえて候。めすに参ぜざらむ者をば、死罪におこなはるべしとやらむ承て参内する所也。抑何事の御定ぞ。」と問けれ共、信頼物もの給はず。著座の公卿も一言の返答なかりければ、まして僉議の沙汰もなし。 程へて光頼卿つい立て、「あしうまい(っ)て候けり。」とて、しづ<とあゆみ出られけり。庭上に充満たる兵ども、是を見奉て、「あ(っ)ぱれ此殿は大剛の人かな。去ぬる十日より、おほくの人出仕し給つれども、右衛門督殿の座上につく人一人もおはしまさざりつるに、しいだしたる事よ。門を入給ふより、聊かも臆したる体もみえ給はず。あ(っ)ぱれ此人を大将として合戦せば、いか計かたのもしからむ。」と申せば、かたはらなる者、「むかし頼光・頼信とて、源氏の名将おはしき。其頼光をうちかへして、光頼と名のり給へば、これも剛にましますぞかし。」といへば、又かたはらより、「など其頼信を打返して、信頼とつき給ふ右衛門督殿は、あれほどに臆病にはおはするぞ。」といへば、「壁に耳、天に口といふ事あり。おそろし<。きかじ。」といひながら、みなしのびわらひにわらひけり。 光頼卿かやうにふるまひ給へ共、いそぎても出られず。殿上の小蔀の前、見参の板たからかにふみならしてたゝれたりけるが、荒海の障子の北、萩の戸のほとりに、弟の別当惟方のおはしけるを、まねきつゝの給ひけるは、「公卿僉議とて、もよほされつる間、参じたれども、承りさだめたる事もなし。誠やらん、光頼も死罪におこなはるべき人数にてあ(ん)なる。つたへうけ給はるごときは、其人みな当時の有職、しかるべき人ども也。其うちにいらん事、甚面目なるべし。さても先日右衛門督が車のしりに乗(っ)て、少納言入道が頸実検のために、神楽岡へむかはれける事はいかに。以外然るべからざる振舞かな。近衛大将・検非違使別当は、他にことなる重職なり。其職にゐながら、人の車のしりにのり給ふ事、先規も未きゝをよばず、当時も大きに恥辱なり。就中頸実検は甚穏便ならず。」との給へば、別当、「それは天気にて候しかば。」とて、赤面せられけり。 光頼卿重て、「こはいかに、勅定なればとて、いかでか存ずる旨を一義申さゞるべき。我らが曩祖勧修寺内大臣・三条右大臣、延喜の聖代につかへてよりこのかた、君すでに十九代、臣又十一代、承りおこなふ事は、皆是徳政なり。一度も悪事にしたがはず。当家はさせる英雄にはあらざれ共、ひとへに有道の臣に伴な(っ)て、讒侫の輩にくみせざりしゆへに、むかしより今にいたるまで、人にさしもどかるゝほどの事はなかりしに、御辺はじめて暴悪の臣にかたらはれて、累家の佳名をうしなはんこと、口おしかるべし。大弐清盛は、熊野参詣をとげずして、切目の宿よりはせのぼるなるが、和泉・紀伊国・伊賀・伊勢の家人等待うけて、はせくはゝり、大勢にてあ(ん)なる。信頼卿がかたらふ所の兵、いくばくならじ。平家の大勢をしよせてせめんには、時刻をやめぐらすべき。もし又火などをうけなば、君もいかでか安穏にわたらせ給ふべき。灰燼の地となりたらんだにも、朝家の御なげきなるべし。いかにいはんや、君臣ともに自然の事もあらば、天下の珍事、王道の滅亡、此時に有べし。右衛門督は、御辺に大小事を申あはするとこそきこゆれ。相構々々、ひまをうかがひ、はかりことをめぐらして、玉体つゝがなくおはしますやうに思案せらるべし。さて主上はいづくにおはしますぞ。」「黒戸の御所に。」「上皇は。」「一品御書所に。」「内侍所は。」「温明殿に。」「剣璽はいづくに。」「よるのおとゞに。」と左衛門督次第に尋給ひければ、別当かうぞこたへられける。又、「朝餉のかたに人音のし、櫛形のあなに人影のしつるは何者ぞ。」との給へば、「それには右衛門督すみ候へば、其かたざまの女房などぞ、かげろひ候らむ。」と申されければ、光頼卿、きゝもあへず、「世の中はいまはかうごさんなれ。主上のわたらせ給ふべき朝餉には、信頼すみ、君をば黒戸の御所にうつしまいらせた(ん)也。末代なれ共、さすが日月はいまだ地におち給はぬ物を、天照太神・正八幡宮は、王法をばいかにまもり給ひぬるぞ。異国にはか様のためしありといへども、我朝にはいまだかくのごときの先蹤をきかず。前代未聞の不思議かな。」とて、のろ<しげにはゞかる所もなくくどき給へば、惟方は人もやきくらんと、世にすさまじげにてたゝれたれ共、かつはかなしみて、「われいかなる宿業によ(っ)て、かゝる世にむまれ相、うき事をのみ見きくらん。むかしの許由にあらね共、今の内裏のあり様を見きかん輩は、耳をも目をもあらひぬべくこそ侍れ。」とて、上の衣の袖しぼるばかりなかれけり。信頼の座上に著せられし時は、さしもゆゝしくみえ給ひしが、君の御事をかなしみて、打しほれてぞ出給ひける。 誠に漢朝の許由は、富貴の事をきゝてだに、心にいとひ思ふが故に、あしき事をきゝたりとて耳をあらひき。いかにいはんや、此光頼は、朝家の諌臣として、悪逆無道の振舞を見聞給ひて、耳目をもあらひぬべく思ひ給ふぞことはりなる。たとへば、帝尭天子の位におはします事七十年、御としすでに老て、誰にか天下をゆづるべきとて、賢者を御尋ありけるに、大臣みなへつらひて、「皇子さいはひにおはします。丹朱にこそつがしめ給はめ。」と申せば、尭ののたまはく、「天下はこれ一人の天下にあらず。何をも(っ)てか太子なればとて、非機にさづけて朝民をくるしましむべき。丹朱をはじめて九人の皇子、ひとりとして其器にたらず。」とて、あまねく賢人をたづね給ふに、箕山の中に許由といふ者、身をおさめてかくれゐたりときこしめして、勅使をも(っ)て、御位をゆづるべき由を仰られたりけるに、許由つゐに勅答をだに申さず。剰富貴尊栄の事をきいて、けがれたりとて、頴川の水にて耳をあらふ所に、同じ山中に居山せる巣父と云賢人、牛をひいて此川に来り水をのまんとしけるが、耳をあらふをみてゆへをとふに、其趣をかたる。巣父がいはく、「賢人の世をのがるゝは、廻生木のごとしといへり。彼木はふかきたに、けはしき所に立たれば、下よりも道なし。上よりも便なし。されば大家の梁にもいたらず、工の是をはかる事なし。汝世をのがれんと思はゞ、猶深山にこそこもるべきに、なんぞ牛馬の栖にまじは(っ)て、例よりもにご(っ)て見えつるか、けがれにけり。然れば牛にもかはじ。」とて、むなしくひいてかへりけるなり。 信頼卿は、小袖にあかき大口、冠に巾子紙いれてき給へり。ひとへに天子の御振舞のごとくなり。大弐清盛は、まづ稲荷の社にまいり、各杉の枝をおりて、鎧の袖にさして、六波羅へぞつきにける。大内には、定て今夜やよせんずらんとて、かぶとの緒をしめてまちあかす。