平治物語 - 21 常葉註進並びに信西子息各遠流に処せらるる事

 こゝに左馬頭義朝の末子ども、九条院雑仕常葉が腹に三人あり。兄は今若とて七ツに成、中は乙若とて五ツ、末は牛若とて今年むまれたり。義朝これらが事心ぐるしく思はれければ、金王丸を道より返して、「合戦にうちまけて、いづちともなくおちゆけども、心はあとをかへり見て、行さき更におもほえず。いづくにありとも、心やすき事あらば、むかへ取べき也。其程は深山にも身をかくして、我音づれをまち給へ。」と申つかはされければ、常葉きゝもあへず、引かづきてふししづめり。おさなき人人は声々に、「父は何くにましますぞ。頭殿は。」と問給ふ。やゝあ(っ)てときはなく<、「さてもいづ方へときゝつる。」ととひければ、「譜代の御家人達を御頼み候て、あづまの方へとぞ仰候し。しばしも御行末おぼつかなく存候へば、いとま申て。」とて出にけり。 少納言入道の子ども、僧俗十二人流罪せられけり。「君の御ためあへて不義を存ぜざりし忠臣の子どもなれば、縦信頼・義朝に流されて配所にありとも、今は赦免あ(っ)てめしこそ返さるべきに、結句流罪に処せらるゝ科の条何事ぞ。心得がたし。」といへば、此人々もとのごとくめしつかはれば、信頼同心の時の事ども、天聴にや達せんずらんと恐怖して、新大納言経宗・別当惟方の申すゝめなるを、天下の擾乱にまぎれて、君も臣もおぼしめしあやま(っ)てけりと、心ある人は申けるが、虚名は立せぬものなれば、いくほどなくてめし返され、経宗・惟方の謀計はあらはれけるにや、つゐに左遷のうれへにしづみけり。信西の子どもみな内外の智、人にすぐれ、和漢の才、身にそなはりしかば、配所におもむく其日までも、こゝかしこによりあひ<、歌をよみ詩を作て、互に名残をぞおしまれける。西海におもむく人は、八重の塩路をわかれてゆき、東国へくだる輩は、千里の山川を隔たる心のうちぞ哀なる。中にも幡磨中将成憲は、老たる母とおさなき子とをふりすてゝ、遼遠のさかひにおもむきける。せめての都の名残おしさに、所々にやすらひて、ゆきもやり給はざりけるが、粟田口の辺に馬をとゞめて、
  道の辺の草のあを葉に駒とめて猶古郷をかへり見るかな 
かくて近江の国をもすぎゆけば、いかになるみの塩ひがた、二むら山・宮路山・高師山・濱名の橋をうちわたり、さやの中山・うつの山をもみてゆけば、都にて名にのみきゝし物をと、それに心をなぐさめて、富士の高根をうちながめ、足柄山をも越ぬれば、いづくかぎりともしらぬ武蔵野や、ほりかねの井も尋みてゆけば、下野の国府につきて、我すむべか(ん)なる室の八嶋とて見やり給へば、けぶり心ぼそくのぼりて、おりから感涙留めがたく思はれしかば、なくなくかうぞきこえける。
  我ためにありける物を下野やむろの八嶋にたへぬ思ひは
 こゝをば夢にだに見んとはおもはざりしかども、今はすみかと跡をしめ、ならはぬ草のいほり、たとへん方もさらになし。