平治物語 - 35 牛若奥州下りの事

 さても常葉をば清盛最愛して、ちかき所にとりすへて、かよはせけるとぞきこえし。されば其腹の男子三人は、流罪をものがれて、兄今若は、醍醐にのぼり出家して、禅師公全済とぞ申ける。希代の荒者にて、悪禅師といひけり。中乙若は、八条の宮に候て、卿公円済と名揚て、坊官法師にてぞおはしける。弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成て、遮那王とぞ申ける。十一の年とかや、母の申しし事を思ひ出して、諸家の系図を見けるに、げにも清和天皇より十代の御苗裔、六孫王より八代、多田の満中が末葉、伊与入道頼義が子孫、八幡太郎義家が孫、六条判官為義が嫡男、前左馬頭義朝が末子にて侍けり。いかにもして平家をほろぼし、父の本望を達せむと思はれけるこそおそろしけれ。ひるは終日に学問を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて、天狗と夜々兵法をならふと云々。されば早足・飛越、人間のわざとは覚えず。 母の常葉、清盛に思はれて、姫君一人まふけたりしが、すさめられて後は、一条の大蔵卿長成卿の北の方になりて、子どもあまた出来たり。此遮那王をば蓮忍も覚日も、「出家し給へ。」といへば、「兄ふたりが法師になりたるだに無念なるに、左右なくはならじ。兵衛佐に申あはせて。」など申されけり。しゐていへば、つきころさん、さしちがへんなど、内々もいはれければ、師匠も常葉も、継父の大蔵卿も力及ばす。たゞ平家のきゝをのみぞなげかれける。 或時、奥州の金商人吉次といふ者、京上の次には、必鞍馬へまいりけるにあひ給ひて、「此童を陸奥国へ具して下れ。ゆゝしき人をしりたれば、其悦には、金を乞て得させんずる。」との給へば、「御供つかまつらん事はやすき事にて候へども、大衆の御とがめや候はんずらん。」と申せば、「此わらはうせて候共、誰か尋候べき。只、土用の死人を盗人のとりたるにこそ候はんずれ。」との給へば、「其上は子細候はじ。」と約束しけるが、「但定日は、同道の人のはからひにて候べし。」と申所に、其人又参詣せり。遮那王かたらひよ(っ)て、「御辺は、何の国の人、何氏にてましますぞ。」とこま<”と問給へば、「下総国の者にて候。深栖の三郎光量が子、陵助重頼と申て、源氏にて候。」とこたへければ、「さては左右なき人ごさんなれ。誰にかむつび給ふ。」「源三位頼政とこそ申むつび候へ。」と申せば、「今は何をかかくしまいらせ侍るべき。前左馬頭義朝の末子にて候。母も師匠も法師になれと申され候へども、存ずる旨侍て、今までまかり過候へども、始終都の栖居難治におぼえ候。御辺具して、まづ下総まで下り給へ。それより吉次を具して、奥へとをり侍らん。」と委細にかたり給へば、「子細なし。」と約諾して、生年十六と申、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出て、東路はるかに思ひたつ、心のほどこそかなしけれ。 其夜鏡の宿につき、夜ふけて後、手づからもとどり取上て、ふところよりゑぼし取いだし、ひたときてあかつき打出給へば、陵助、「はや御元服候けるや。御名はいかに。」と問奉れば、「烏帽子親もなければ、手づから源九郎義経とこそ名乗り侍れ。」と答て、うちつれ給て、きせ川につきて、北条へよらむとの給ひしを、「父にて候深栖は、見参に入て候へども、重頼はいまだ御めにかゝり候はず。後日に御文にてや仰候はん。」と申せば、すぐにとをり給ひけり。 こゝに一年ばかりしのびておはしけるが、武勇人にすぐれて、山立・強盗をいましめ給ふ事、凡夫の態共見えざりしかば、「錐ふくろに達すといへば、始終は平家にやきこえなん。」と深栖三郎も申せば、「さらば奥へとをらん。」とて、まづ伊豆にこえて、兵衛佐殿に対面し、此よしを申て、「もし平家きゝなば、御ためしかるべからず。されば奥へ下り侍らん。」との給ふに、佐殿、「上野国大窪太郎がむすめ、十三のとし、熊野まいりのつゐでに、故殿の見参にいりくだりしが、父にをくれて後、人の妻とならば、平氏の者にはちぎらじ。同じくは秀衡が妻とならんとて、女、夜にげにして、おくへ下りける程に、秀衡が郎等、信夫小大夫といふ者、道にてゆきあひ、よこ取して、二人の子をまふけた(ん)なり。今も後家分を得て、ともしからであ(ん)なるぞ。それを尋て行給へ。」とて、文を書てまいらせらる。 則おくへとをり給ふて、御文をつけ給へば、夜に入(っ)て対面申し、尼は、「佐藤三郎次信、佐藤四郎忠信とて、二人の子を持て侍る。次信は御用には立まいらすべき者なれ共、上戸にて、酒に酔ぬれば、すこし口あらなる者也。忠信は下戸にて、天性極信の者なり。」とて奉りけり。多賀の国府にこえて、吉次に尋あひ、「秀衡がもとへ具してゆけ。」との給へば、平泉にこえて、女房に付て申たりしかば、則入奉て、「もてなしかしづき奉らば、平家にきこえてせめあるべし。出し奉らば、弓矢のながき疵なるべし。おしみまいらせば、天下の乱なるべし。両国の間には、国司・目代の外みな秀衡が進退なり。しばらくしのびておはしませ。みめよき冠者殿なれば、姫もたらむ者は、むこにも取奉り、子なからん人は、子にもしまいらすべし。」と申せば、「義経もかうこそ存じ候へ。但金商人をすかして、めし具して下り侍り。何にてもたびたく候。」との給ひければ、金卅両とりいだして、商人にこそとらせけれ。其時、上野国松井田といふ所に、一宿せられたりけるに、家主の男を見たまふに、大剛の者とおぼえければ、後平家をせめにのぼられける時、かたらひ具し給へり。伊勢国の目代につれて、上野へ下りけるが、女に付てとゞまれる者なれば、伊勢三郎とめされ、「我烏帽子々の始なれば、義の字をさかりにせん。」とて、義盛とは付給へり。堀弥太郎と申は、金商人也。