平治物語 - 36 頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事

 兵衛佐殿は、配所にて廿一年の春秋を送られけるが、文覚上人の勧によ(っ)て、後白河法皇の院宣をたまはり、治承四年八月十七日に、和泉判官兼高を夜うちにしてより後、石橋山・小坪・絹笠、所々の合戦に身を全して、安房・上総の勢をも(っ)て、下総国うちなびけ、武蔵国へ出給ひぬれば、八ヶ国になびかぬ草木もなかりけり。 醍醐の悪禅師全済、八条卿公円済も、此よしきゝて、関かためぬさきにと、いそぎはせ下られければ、平家やがて土佐へながしゝ希義うてと、当国の住人、蓮池次郎権守家光に仰付られしかば、家光参て、「兵衛佐殿、坂東にて謀叛おこさせ給ふとて、君を打まいらせよと、飛脚下着候。」と申せば、「いしうつげたり。」我毎日父のために、法華経を読誦す。今日いまだよみおはらず。しばらく相まて。」とて、持仏堂に入、御経二巻よみ終て、腹かき切(っ)てうせ給ふ。 九郎御曹子は、秀衡がもとにおはしけるが、佐殿すでに義兵をあげ給ふときこえしかば、打立給ふに、秀衡、紺地の錦の直垂に、くれなゐすそごの鎧、金作の太刀をそへて奉る。「馬は御用にしたが(っ)てめさるべし。」とぞ申ける。やがて信夫に越給へば、佐藤三郎は、「公私、取したゝめてまいらん。」とてとゞまり、弟の四郎は則御供す。はや白川の関かためて(ん)げれば、那須の湯詣の料とてとおり給ひ、兵衛佐殿は、大庭野に十万騎にて、陣取ておはしける所へ、究竟の兵百騎ばかりにて参り給ふ。佐殿、「何者ぞ。」と問給へば、「源九郎義経。」と名乗ましませば、「むかし八幡殿、後三年の合戦のとき、弟の義光形部丞にておはしけるが、弦袋を陳の座にとゞめて、金澤の城へはせ下り給ひけるをこそ、『故入道殿のふたゝびいきかへり給ひたるやうにおぼゆる。』とて、鎧の袖をぬらされけるとこそ承れ。」としきりに喜給ひけり。 甲斐源氏、武田・一条・小笠原・逸見・板垣・加々見次郎・秋山・浅利・伊澤等、駿河目代広政を討て(ん)げれば、平家の大将、小松権亮少将惟盛、其勢五万余騎にて、富士川のはたに陳をとる。頼朝は足柄・箱根をうちこえて、きせ河につき給ふ。其勢廿万騎也。平家の兵の中に、斉藤別当実盛、「源氏夜討にやし候はむずらん。」と申ける夜、富士川の沼におりゐける水島ども、軍勢におそれて飛立ける羽音におどろきて、矢の一も射ずして、都へにげて上りけり。養和元年三月に、平家又墨俣にてさゝへたり。卿公円済、義円と改名したりけるが、深入してうたれて(ん)げり。醍醐悪禅師は後に、有職に任て、駿河阿闍梨といひしが、僧綱に転じて、阿野法橋とぞよばれける。寿永二年七月廿五日、北陸道をせめのぼりける木曾義仲、まづ都へ入と聞えしかば、平家は西海におもむき給ふ。されども池殿のきんだちはみな都にとゞまり給ふ。其ゆへは、兵衛佐鎌倉より、「故尼御前をみ奉ると存じ候べし。」と、度々申されければ、落とゞまり給ひけり。本領すこしも相違なく、安堵せられければ、むかしの芳志を報じ給ふとぞおぼえし。 さるほどに長田の四郎忠宗は、平家の侍どもにもにくまれしかば、西国へもまいらず。かくてはやがて国人どもにうたれんとや思ひけん、父子十騎ばかり羽をたれて、鎌倉殿へぞまいりける。「いしう参じたり。」とて、土肥次郎にあづけられけるが、範頼・義経の二人の舎弟を指のぼせられけるとき、長田父子をも相そへ給ふとて、「身を全して合戦の忠節をいたせ。毒薬変じて甘露となるといふ事あれば、勲功あらば、大なる恩賞をおこなふべし。」とぞ約束し給ける。しかれば木曾を対治し、平家の城摂州一の谷をせめおとす。注進の度ごとに、「忠宗・景宗はいくさするか。」と問給ふに、「又なき剛の者にて候。向敵をうち、あたる所を破らずといふ事なし。」と申せば、八嶋城落たりと聞えしとき、「今は、しやつ親子にいくさせさせそ。うたせんとて。」との給ひけるが、軍はてて土肥に具してかへりまいりければ、「今度の振舞神妙也ときく。約束の勧賞とらするぞ。あひかまへて頭殿の御孝養よく<申せ。成綱に仰ふくめたるぞ。」とありしかば、悦てまかり出たるを、弥三小次郎をしよせて、長田父子をからめとり、八付にこそせられけれ。八付にもたゞにはあらず、頭殿の御墓の前に、左右の手足をも(っ)て竿をひろがせ、土に板をしきて、土八付といふ物にして、なぶりごろしにぞせられける。「平家の方へも落ゆかず、さらば城にも引こもり、矢の一をも射ずして、身命をすてて軍して、ほしからぬ恩賞かな。是も只不義のいたす所、業報の果すゆへ也。」とぞ人々申ける。又何者かしたりけん、
  きらへども命の程は壱岐のかみ美の尾張をば今ぞ給はる
  かりとりし鎌田が頸のむくひにやかゝるうきめを今は見るらん
とよみて、作者に、鎌田政家と書たる高札をこそ立たりけれ。是をみる者ごとに、哀とはいはずして、くちびるを返してにくまぬ者ぞなかりける。されば武の道に、血気の勇者、仁義の勇者と云事あり。いかにも仁義の勇者を本とす。忠宗・景宗も、随分血気の勇者にて、抜郡の者なりしか共、仁義なきがゆへに、譜代の主君を討奉て、つゐにわが身をほろぼしけり。 こゝに池殿の侍、丹波藤三国弘と名乗て、鎌倉へまいりたりしかば、「我も尋たく思つれども、公私の怱劇に思ひわすれ、今も無沙汰なり。」とて、則対面し、「只今納殿にあらん物、みな取出よ。」と下知し給ひければ、金銀・絹布色々の物どもを、山のごとくにつみあげたり。「是は先時にと(っ)ての引出物、訴訟はなきか。」と問たまへば、丹波国細野と申所は、相伝の私領にて侍るよし申せば、やがて御下文給て(ん)げり。財宝をなみ次にをくれとて、都までぞ持をくりける。其時、かゝる運をひらくべき人とは思はざりしかども、あまりにいたはしくて、なさけありて奉行しけるゆへ也。兵衛佐のたまひけるは、「頸は故池殿につがれ奉る。其報謝には、大納言殿を世にあらせ申侍り。本どりは纐纈源五につがれたり。但盛安は、双六の上手にて、院中の御局の双六につねにめされ、院も御覧ぜらるゝなれば、君の召つかはせ給はん者をば、いかでか呼下すべきと思て、斟酌する也。」とかたり給へば、此由源五につげたりしか共、天性双六にすきたるうへ、院中の参入を思出とや存じけん、つゐに鎌倉へは下らざりけり。 九郎判官は、梶原平三が讒言によ(っ)て、都の住居難儀なりしかば、又奥州に下り、秀衡をたのみてすごされけるが、秀衡一期の後、鎌倉殿より泰衡をすかして判官をうたせ、後に泰衡をもほろぼされけるこそおそろしけれ。かくて日本国のこる所なく打したがへ給ふて、建久元年十一月七日、始て京のぼりせられけるに、近江国千の松原といふ所につかせ給、浅井の北郡の老翁を尋らるゝに、二人の老者をゐてまいる。土瓶二を持参せり。「あれはいかに。」と問給へば、「君のむかしきこしめされしにごり酒なり。」と申せば、「まことにさる事あり。」とて、三度かたぶけて、「汝、子はなきか。」と仰ければ、「候。」とて奉る。則めし具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清恒とて、近習の者にてありけるなり。さて、「此翁に引出物せよ。」と仰ありしかば、白鞍をきたる馬二匹、色々の重宝入たる長持二合ぞたうだりける。又むかしの鵜飼をめし出して、小平をやがて給てけり。 入洛ありしかば、則院参し給たるに、法皇も往事おぼしめし出て、ことにあはれげにこそ見えさせおはしましけれ。髭切といふ太刀、清盛がもとにありしを、御まもりのためとて、院にめしをかれたりしを、今度頼朝にたまはりけり。青地の錦の袋にいれられたり。三度拝して給はりけるとなん。 此太刀に付てあまたの説あり。頼朝の卿、関が原にてとらはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手にわた(っ)て、院へまいりけりと云々。又或説には、いまのはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は已前より青墓の大炊がもとよりまいらせける也。其ゆへは、兵衛佐、大炊にあづけられけるを、頼朝囚人と成給ひし時、此太刀を尋られけるに、今はかくしても何かせんとや思はれけん、ありのまゝに申されけり。則大炊がもとへ尋られけるに、「源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそきられ給ふとも、義朝の君だちおほければ、よも跡はたえ給はじ。まづかくして見んと思ひければ、泉水とて、同程なる太刀ありけるを、抜かへてまいらする。髭切は、柄鞘円作り也。定て佐殿にみせまいらせらるべし。佐殿、童とひとつ心になりて、子細なしとの給はゞ、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にてさぶらへば、取ちがへ候けりと申さんに、くるしからじ。」と思案して、泉水をのぼせける也。難波六郎経家、うけ取てのぼりけるを、やがて頼朝にみせ奉りて、「これか。」ととはれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなるよしをぞ申されける。清盛大きに喜て、秘蔵せられけるを、院へめされけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方よりまいらせけると云々。 其京のぼりの度、盛安をめして、様々の重宝を給はり、「いかに今まで下らざりけるぞ。大庄をもたびたけれ共、折ふし関所なし。然るべき所あらば、給べし。」とぞの給ける。「誠に、いままで参ぜざる条、私ならぬ儀とは申ながら、不義のいたり、併 微運の至極なり。」とぞ盛安も申ける。 建久三年三月十三日、後白河院崩御なりしかば、やがて盛安鎌倉へぞまいりける。頼朝対面し給て、「最前も下向したりせば、然るべき所をもたばんずるに、今までの遅参こそ力なき次第なれ。小所なれ共、先馬かへ。」とて、多起の庄年分をぞ給ける。由緒のよし申けるにや。美濃国上の中村といふ所をも、同じく給て(ん)げり。建久九年十二月に、貢馬の次に、「明年正月十五日すぎは、いそぎくだるべし。多喜の庄をば、一円に給はるべし。」と仰つかはされけるに、明る正治元年正月十三日、鎌倉殿、御とし五十三にてうせ給ひけり。源五これをもしらず、十六日に京を立てはせ下るほどに、三河国にて、はや此事をきゝしかども、わざとも下るべき身なれば、鎌倉に下着して、身の不運なるよし語けるほどに、昔の夢想の不思議など申ければ、斉院次官親能「其鮑の尾を則くふとだにみたらば、猶めでたからまし。給て懐中せしばかりなればにや、残る所ある。」とぞ申されける。 さても清盛公、兵衛佐を助けをかれしとき、よも只今富家をくつがへさん人とは思ひ給はじ。同じく九郎判官の二歳にて、母のふところにいだかれけるを、わが子孫をほろぼすべきあたと思ひなば、いかでかなだめ給ふべき。是しかしながら、八幡大菩薩、伊勢太神宮の御はからひとぞおぼゆる。趙の孤児は袴の中にかくれてなかず、秦の遺孫は壷の内にやしなはれて、人と成と申せば、人の子孫の絶まじきには、かゝる不思議も有ける也。義朝は、鳥羽院の御宇、保安四年癸卯のとし生れ、卅四歳にして、保元々年に忠節をいたし、勲功をかうぶり、朝恩に浴しける。今度の謀叛にくみして身をほろぼしき。然ども又頼朝・義経二人の子あ(っ)て、兵衛佐卅四、判官廿二歳にして、治承四年に義兵をあげ、会稽の恥をきよめ、ふたゝび家をさかやかし給へり。頼朝は、近衛院久安三年丁卯のとし誕生す。義経は二条院平治元年巳卯のとしむまれたれば、三人ともに、単閉のとしの人なり。中にも頼朝、平家をほろぼし、天下をおさめて、文治の始、諸国に守護をすへ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して、武士の輩をいさめ、すたれたる家をおこし、絶たる跡をつぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣をかうぶれり。卯は是東方三支の中の正方として、仲春をつかさどる。柳は卯の木也。三春の陽気を得て、天道めぐみの眉をひらき、いとなみしげくさかふれば、柳営の職には、卯の歳の人は、げに便有ける者かな。
 平治物語 終