さて頼朝は、伊豆国へながされければ、池殿、兵衛佐をめされて、なく<の給けるは、「昨日までも御事ゆへに心をくだきつるが、配所さだまりてながされ給ふべき也。尼はわかくより慈悲ふかき者にて、おほくの者ども申たすけたりしかども、今はかゝる老尼の申事、叶べしとも覚ざりしが、左馬頭のよく申されて、すでに命のたすかり給ふ事のうれしさよ。今生のよろこび是に過たる事なし。」とくどき給へば、頼朝、「御恩によ(っ)て、かひなき命をたすけられまいらせ候事、生々世々にも報じつくしまいらせがたくこそ候へ。それについて、はる<”とまかり下り侍らん道すがら、我かたさまの者一人も候はねば、いかゞ仕るべき。」と申されければ、「まことにそれもいたはしゝ。親祖父の時よりめしつかはるゝ者も、世におそれてこそかくれゐてさぶらふらめ。いまはなだめられぬと披露をなして御覧ぜよかし。」とはからはれしかば、やがて其由風聞するに、侍少少出来たり。彼侍ども同心に申けるは、「今は御出家の事を申されて、御下向候はゞ、御心やすく候なん。池殿もよくおぼしめし、平家の人々も然るべくこそ存ぜられ候はめ。」と申すゝめけるに、纐纈の源五盛安ばかりぞ、みゝにさゝやき申けるは、「人はいかに申候とも、御ぐしをおしませおはしませ。君のたすからせ給ふ事たゞ事にあらず。八幡大菩薩の御はからひとおぼえ候。」と申せば、うちうなづき給けり。御出家あれといふにも、な成給ひそといふにも、共に音もし給はぬ心の中こそおそろしけれ。 永暦元年三月廿日、すでに伊豆国へ下られければ、池の禅尼へいとま申に参られけり。禅尼つら<御覧じて、「不思議の命を助け奉る志、思ひしり給はゞ、尼がことのはの末をすこしもたがへず、弓箭・太刀・刀、狩・すなどりなどいふ事、耳にもきゝ入給ふべからず。人の口はさがなき物なれば、御身も二度事にあひ、尼にもかさねてうき耳きかせ給ふな。」など、こま<”との給へば、頼朝は今年十四なれば、いはゞ幼稚のほどなれども、人の志の眞実なるを思ひしりて涙にむせび、袖もしほる計にておはしけるが、やゝあ(っ)て、「父母にをくれ候て後は、あはれをかくべき人も侍らぬに、ねんごろの御こゝろざし有がたくこそ候へ。」とて、しきりになきしづみ給へば、禅尼もまことにさこそと心の中をしはかられて、「人はよき親の孝養、心ざしふかきが冥加もあり、命もながき事にてあるぞとよ。経をもよみ、念仏をも申て、父母の後生をとぶらひ給べし。尼は子とおもひて、かやうにも申なり。其ゆへは、尼が子に右馬助家盛とて候しぞとよ。それが面影によくに給ひたれば、いとおしく思ふ也。すべてみめかたち心ざま人にすぐれて、鳥羽院にめしつかへて御おぼえよかりしが、此大弐殿いまだ中務少輔と申し時、祇園の社にて事を出し、社人のう(っ)たへありしかば、山門の大衆あげて流罪せられよと公家に申しかども、君かゝへ仰られしを、弟家盛さゝへなりとて、呪咀するときこえしが、まことに山王の御たゝりにや、廿三のとしうせさぶらひし也。かひなき命たへてあるべしともおぼえざりしが、はや十一年になり侍りけるぞや。何事に付ても思ひ出さぬ時もなきに、御事さへ打そへて、涙をながし心をつくしつるに、まづうれ敷こそさぶらへ。御身は行末はるか也。尼はあすをもしらぬ身なれば、名残こそおしくさぶらへ。」と、心くるしげにうちなげき給へば、佐殿もまめやかなる志のほどを思ふにも、いかにして此恩を報ぜんともおぼえず、夜もすがら、なきこそあかされけれ。 三月廿日の暁、池殿をいでゝ、東路はるかに下られけり。郎等少々ありしも、みなとゞめられて、わづかに三四人こそ具したりしか。盛安も大津までとて、馬鞍尋常にして供したりけるに、佐殿、「凡人のながさるゝは大きなる歎きなるが、頼朝が流罪は希代の悦也。」とぞのたまひける。され共内の蔵人にてもありしかば、雲上のまじはりも忘がたく、后の宮の宮つかさにても侍りしかば、其御名残もおしかりき。親にもあらぬ池の禅尼の、情をかけ給ふにも別奉れば、袂のかはくひまぞなき。越鳥南枝に巣をかけ、胡馬北風にいばへけるも、生土を思ふ故ぞかし。東平王といふ者、旅の空にてうせけるが、墓の上なる草も木も、故郷のかたへぞなびきける。生をかへての後迄も、生土はわすれぬならひなるに、追立の検使青侍季通、粟田口より次第に、路次にもちあふ物をうばひ取て、狼籍殊に甚し。盛安は大津までと申たりしが、人々とゞまりぬるうへ、勢田には橋もなくて、船にてむかひの地へわたり給へば、かた<”心ぐるしくて打送り奉る所に、社のみえけるを、「いかなる神ぞ。」と問給へば、「健部明神。」と申す。佐殿、「さらば今夜は此御前に通夜して、行路のいのりをも申さん。」とて、社壇にぞとゞまり給ひける。 夜ふけ人しづま(っ)て、盛安申けるは、「都にて御出家然るべからざるよし申候しは、不思議の夢想をかうぶりたりし故也。君御浄衣にて、八幡へ御参り候て、大床にまします。盛安御供にてあまたの石畳のうへに祇候したりしに、十二三ばかりなる童子の、弓箭をいだきて大床にたゝせ給ふ。『義朝が弓・箙めして参て候。』と申されしかば、御宝殿の中より、け高き御声にて、『ふかくおさめをけ。つゐには頼朝にたばんずるぞ。是頼朝にくはせよ。』と仰らるれば、天童物を持て御前にさしをかせ給ふ。なにやらんと見奉れば、打鮑といふ物也。君おそれて左右なくまいらざりしを、『それたべよ。』と仰らる。かぞへて御覧ぜしかば、六十六本あり。彼鮑を両方の御手にてをしにぎ(っ)て、ふとき所を三口まいりて、ほそき所を盛安になげ給ひしを、取て、懐中するとみて、打おどろき存じ候しは、故殿こそ一旦朝敵とならせ給へ共、御弓・箙、八幡の御宝殿におさめをかれ、つゐには君に奉らせ給はんずる也。又、打鮑六十六本まいりしは、六十六ヶ国をうちめされ候はんずると、合申て候つ。」と申せば、其の返事をばし給はで、「いざ、せめて鏡まで。」との給へば、「いづくまでも御供仕らんと存候へ共、八旬にあまる老母あひいたはる事候へば、今日明日をもしりがたく候。いかにもみなし候はゞ、やがてまいらん。」と申て候へ共、「人のなさにこそ、かうは仰候らめ。母の事はともかくも侍れ。伊豆まで御供つかまつらむ。」と申せば、「それは思ひもよらず。志はさる事なれども、汝が母のなげかん事、しかしながらわがひが事なるべし。母いかにも成なん後はまいるべし。」とて、再三とゞめ給へば、ちからなく、なく<都へ上りけり。 兵衛佐殿は、尾張国熱田大宮司季範がむすめの腹也。男子二人女子一人ぞおはしける。女子は後藤兵衛実基、養君にして、都にかくしをきけり。今一人の男子は、駿河国に香貫といふ者、「からめ出て、平家へ奉れば、希義といふ名を付て、土佐国気良といふ所へながされておはしければ、気良の冠者とぞ申ける。兵衛佐は伊豆国、兄弟東西へわかれゆく宿業の程こそかなしけれ。