平治物語 - 33 経宗・惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事

 院は顕長卿の宿所に御座ありけるが、つねは御桟敷に出させ給て、行人の往来を御覧ぜられて、なぐさませ給けるに、二月廿日の比、内裏よりの御使とて打付てけり。上皇御いきどをりふかふして、清盛をめされ、「主上はおさなくましませば、是程の御はからひあるべし共覚えず。是しかしながら経宗・惟方がしわざと思食。いましめてまいらせよ。」と仰られければ、畏(っ)て、「一とせ保元の乱に、親類をはなれて、御方に参て忠をいたし候き。去年又一力をも(っ)て凶徒を誅戮つかまつり、一命をかろんじて君を位につけまいらせ候。いく度なりとも、院宣・勅定にこそしたがひ候はんずれ。」とて、やがて官軍をさしつかはし、経宗・惟方の宿所にをしよせたれば、新大納言のもとには、雅楽助通信・前武者所信安といふ者、二人討死してけり。されども両人ともに別の事なくめしと(っ)て、御坪の内に引すへたり。 既に死罪にさだまりけるを、法性寺の大殿、「むかし嵯峨天皇弘仁元年九月に、右兵衛督藤原仲成を課せられしより、去ぬる保元々年まで、御門廿五代、年記三百四十七年、かの間、死せる者ふたゝび帰らず、ふびんなりとて死罪をとゞめられたりしを、後白河院の御宇に、少納言入道信西執権のとき、始て申おこなひたりしが、中二とせをへて去年大乱おこり、その身やがて誅せられぬ。おそろしくこそ侍れ。公卿の死罪いかゞあるべかるらむ。其上、国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者たえずと申せば、かた<”も(っ)て死罪一等をなだめて、遠流にや処せられん。」と申させ給へば、「尤大殿の仰然るべし。」と諸卿同じく申されしかば、新大納言経宗をば阿波国、別当惟方をば長門国へぞながされける。官外記の記録には、令三左近将監を射二殺させ仲成於禁所一としるしたれば、まさしく頸をはねられけん事は、猶ひさしくやなりぬらん。 去ほどに、彼人々の隠謀次第にあらはれて、君も罪なきよしきこしめされければ、信西が子共みなも(っ)てめし返さる。御政に付て、仰合せらるゝかたなきまゝに、彼禅門をぞしのばせ給ひける。師仲卿もつゐにのがるゝ所なくして、幡磨中将成憲の配所、室の八嶋へぞつかはされける。伏見源中納言卿、三河の八橋をわたるとて、
  夢にだにかくて三河の八はしをわたるべしとは思はざりしを
とよまれたりしを、上皇きこしめして、哀におぼしめされければ、めし返せとぞ仰なりける。まことに詠歌の徳なるべし。 其後、新大納言経宗も、阿波国よりめしかへされて、右大臣になる。人、阿波の大臣とぞ申ける。又、大宮左大臣伊通公、「世にすめば興ある事をきく物かな。昔こそ吉備の大臣ありけんなれ。今、粟の大臣出来たり。いつか又、稗の大臣出こんずらん。」とわらはれけり。大饗おこなはるべかりけるに、尊者に此左大臣請じ奉り給ければ、使者のきくをもはゞからず、「粟の大臣ののぼ(っ)て、はたごふるひせらるゝな。伊通はえまいらじ。」とぞ申されける。別当入道は、御いきどをりふかくして、めしかへされまじきよしきこえければ、心ぼそくや思はれけん、故郷へ一首の歌をぞをくられける。
  此瀬にもしづむときけば涙川ながれしよりもぬるゝ袖かな
とよみたりしを、きく人も哀をもよほし、君も感じおぼしめされければ、つゐに赦免を蒙て、上洛せられけり。