平治物語 - 32 常葉六波羅に参る事

 さる程に清盛は、義朝が子ども常葉が腹に三人ありときいて、「しかも男子也。尋よ。」とありしかば、常葉が母をめし出してとはれける程に、「左馬頭殿うたれ給ひぬときこえし日より、子ども引具して、いづちともなくまよひ出侍りぬ。いかでかしり侍らん。」と申ければ、「何条、其母をからめ取(っ)て尋よ。」とて、六はらへめし出して、様々にいましめとはれけり。母なく<申けるは、「われ六十にあまる身の命、けふあすともしらぬ老の身をおしみて、末はるかなる孫どもの命をば、いかでかうしなひ侍るべきなれば、しりたりとも申まじ。ましてしらぬ行すゑ、何とか申さぶらはん。」とくどきければ、水火のせめにも及べかりしを、常葉宇多郡にて、此よしつたへきゝ、母のためにうきめにあはんはいかゞせん、我故、母の苦を見給ふらんこそかなしけれ、仏神三宝もさこそにくしとおぼしめすらめ、子どもは僻事の人の子なれば、つゐにはうしなはれこそせんずらめ、かくしもはてぬ子ども故、咎なき母の命をうしなはん事のかなしさよと思へば、三人の子ども引具して、都へのぼり、もとのすみかに行てみれば、人もなし。こはいかにとたづぬれば、あたりの人、「一日六波羅へめされ給しが、いまだ帰り給はず。」とぞこたへける。 常葉まづ御所へ参て申けるは、「女の心のはかなさは、もし片時も身にそへて見ると、此おさなき者ども引具し、かたゐなかに立忍びて侍つるが、童ゆへ行衛もしらぬ老たる母の、六はらへめされてうきめにあひ給ふと、うけ給はれば、余にかなしくて、恥をも忘て参りたり。はや<おさなき者ともろともに、六はらへつかはさせおはしまして、母のくるしみをやめて給りさぶらへ。」と申せば、女院を始まいらせて、有とある人々、「世のつねは、老たる母をばうしなふとも、後世をこそとぶらはめ。おさなき子どもをばいかゞころさんと思ふべきに、こどもをばうしなふとも、母をたすけんと思ふらむ有がたさよ。仏神もさだめてあはれみおぼしめすらん。年来此御所へ参るとは、皆人しれり。」とて、尋常に出たゝせて、親子四人きよげなる車にて、六はらへぞつかはされける。 見なれし宮の中も、けふをかぎりと思ふには、涙もさらにとゞまらず。名をのみきゝし六波羅へも近づけば、屠所の羊のあゆみとは、我身一にしられたり。常葉すでにまいりしかば、伊勢守景綱申次にて、「女の心のはかなさは、しばしももしや身にそへ侍と、おさなき者あひ具して、かた辺土へ忍びて侍つるに、行ゑもしらぬ母をめしをかせおはしますと承(っ)て、御尋の子どもめし具して参りさぶらふ。母をばとく<助おはしませ。」とかきくどけば、きく人まづ涙をぞながしける。清盛此よしきゝ給て、先、「子ども相具して参たる条、神妙なり。」とて、やがて対面し給へば、二人の子は左右のわきにあり、おさなきをばいだきけり。涙ををさへて申けるは、「母はもとよりとがなき身にてさぶらへば、御ゆるし侍べし。子どもの命をたすけ給はんとも申候はず。一樹のもとにすみ、同じ流をわたるも、此世一の事ならず。たかきもいやしきも、親の子を思ふならひ、皆さこそさぶらへ。量此子どもをうしなひては、かひなき命、片時もたへて有べし共覚えさぶらはねば、まづわらはをうしなはせ給ひて後、子どもをばともかくも御はからひさぶらはゞ、此世の御なさけ、後の世までの御利益、これに過たる御事さぶらはじ。ながらへてよるひる歎き悲しまん事も、罪ふかくおぼえ侍。」とくどきければ、六子、母の顔を見あげて、「なかで。よく申させ給へ。」といへば、母は弥涙にぞむせびける。さしも心つよげにおはしつる清盛も、しきりになみだのすゝみければ、をしのごひ<して、さらぬ体にもてなし給へば、さばかりたけき兵共、みな袖をぞしぼりける。しのびあへぬ輩は、おほく座席を立けるとかや。 常葉は今年廿三、こずゑの花はかつちりて、すこしさかりはすぐれ共、中々見所あるにことならず。もとよりみめかたち人にすぐれたるのみならず、おさなきより宮づかへして物なれたるうへ、口きゝなりしかば、ことはりたゞしう思ふ心をつゞけたり。緑のまゆずみ、くれなゐの涙にみだれて、物思ふ日数へにければ、そのむかしにはあらねども、打しほれたるさま、なほよのつねにはすぐれたりければ、「此事なくは、いかでかかゝる美人をば見べき。」と皆人申せば、或人語りけるは、「よきこそげにもことはりよ。伊通大臣の、中宮の御かたへ人のみめよからんをまいらせんとて、九重に名を得たる美人を、千人めされて百人えらび、百人が中より十人えらび、十人の中の一とて、此常葉をまいらせられたりしかば、唐の楊貴妃、漢の李夫人も、これにはすぎじ物を。」といへば、「見れども<、いやめづらかなるもことはりかな。」とぞ申ける。 去ほどに母はゆるされけるに、「此孫どもをうしなひて、あすをもしらぬ老の身の、たすかりてもなにかせん。うたての常葉や、此老の命を助けんとてや、あの子どもをば何しに具してまいりけん。四人の子孫の事を思はんより、たゞ老の身をまづうしなはせ給へ。」とて、なきかなしみけるもことはり也。あし音のあららかなるをも、今やうしなはるゝ使なるらんと肝をけし、こはだかに物いふをも、はや其事よとたましゐをうしなひけるに、大弐のたまひけるは、「義朝が子共の事、清盛がわたくしのはからひにあらず、君の仰をうけ給は(っ)て、とりおこなふ計也。うかゞひ申て、朝儀にこそしたがはめ。」との給へば、一門の人々并に侍ども、「いかに、か様に御心よはき仰にて候やらん。此三四人成長候はんは、只今の事なるべし。君達の御ため、末の世おそろしくこそ候へ。」と申せば、清盛、「誰もさこそ思へども、おとなしき頼朝を、池殿の仰によ(っ)て、助をくうへは、兄をばたすけ、おさなきを誅すべきならねば、力なき次第也。」との給けり。常葉は、子どもの命けふにのぶるも、ひとへに観音の御はからひと思ひければ、弥信心をいたして、普門品をよみ奉り、子どもには名号をぞとなへさせける。かくて露の命もきえやらで、春もなかばくれけるに、兵衛佐殿は伊豆国へながさるときこえしかば、我子どもはいづくへかながされんと、肝をけしふししづみけるが、おさなければとて、さしをかれて、流罪の義にも及ばざりけり。