未兵衛佐は宗清がもとにおはしければ、尾張守より丹波藤三国弘といふ小侍一人付られけり。すでに今日明日誅せられ給ふべしときこえしかば、宗清、「御命たすからんとは思食候はずや。」と申ければ、佐殿、「去ぬる保元におほくの伯父親類をうしなひ、今度の合戦ゆへ、父うたれ兄弟皆うせぬれば、僧法師にも成て、父祖の後世をとぶらはゞやと思へば、命はおしきぞとよ。」との給へば、宗清もあはれにおぼえて、「尾張守の母、他の禅尼と申は、清盛のためには継母にておはしませども、おもく執し給へば、彼方などに付て申させ給はゞ、もし御命はたすかりおはします事も候べき物を。彼尼は、わかくより慈悲ふかき人にて御わたり候。そのうへ一日参て候時、をのがもとに頼朝があ(ん)なるは、いかなるものぞととはせ給ひしかば、御年のほどより事の外おとなしやかに候、其姿右馬助殿にいたく似まいら(っ)させ給て候と申しかば、世にゆかしげに思食たる御気色にてこそ候しか。」とかたり申ければ、「それも誰人か申てたぶべき。」との給へば、「さもおぼしめし候はゞ、叶はぬ迄もそれがし申て見候はん。」とて、池殿へまいり、「何者が申て候やらん、上の大慈悲者にておはしますとて、哀頼朝が命を申たすけさせ給へかし、父の後世とぶらはんと申され候しが、いたはしく候。然べき様に御はからひも候へかし。」と申せば、「そも頼朝に、尼を慈悲者とは誰かしらせける。いさとよ、故形部卿の時はおほくの者を申ゆるしゝか共、当時はいかゞ侍らん。さても右馬助にいたく似たるらむ無慙さよ。家盛だにあらば、鳥に成て雲をしのぎ、魚に成て水にもいり、誠に来世にてもあふべくは、只今死してもゆかんと思ふぞとよ。さて、いつきらるべきにさだまりたるぞ。」との給へば、「十三日とこそきこえ候へ。」と申せば、「かなはぬまでも申てこそみめ。」とて、小松殿、其時の勲功に、伊与守になり給しが、正月より左馬頭に転じ給へるを呼び奉て、「頼朝が尼に付て、命を申たすけよ、父の後世とはん、と申なるが、余りに不便にさぶらふ。よきやうに申てたべ。ことに家盛がおさなおひにすこしもたがはずときけば、なつかしうこそ侍れ。右馬助は、それの御為にも伯父ぞかし。頼朝を申たすけて、家盛が形見に尼にみせ給へ。」との給ければ、重盛参て、父に此よし申されけり。 清盛きいて、「池殿の御事は、故殿のわたらせ給ふと思ひ奉れば、いかなるあまさかさまの仰なりとも、たがへじとこそ存ずれ共、此事はゆゝしき重事也。伏見中納言・越後中将などがやうなる者をば、何十人助をいたりとも大事あるまじ。大底弓矢とる者の子孫は、それには異なるべきうへ、義朝などが子どもは、おさなく共子細あるべき物を。ことに頼朝は官加階も兄にこゆるは、ゆゝしき所があるにや。父も見かとめ侍ればこそ、重代の中にも取分秘蔵の物具などあたへけめ。かた<”助けをきがたき物を。」とて、以外の気色なり。 左馬頭帰り参て、かなひがたき題目なる由申されければ、池殿泪をながして、「あはれ、こひしきむかしかな。忠盛の時ならば、是ほどにかろくは思はれ奉らじ。一門の源氏皆ほろび侍り。あのおさなき者ひとりたすけをかれたりとも、何ばかりの事か侍らん。さきの世に頼朝に助られける故やらん、きくよりいたはしくふびんに侍ぞとよ。御身ををろそかとはおもひ奉らねども、一は使がらと申事の侍れば。」などまめやかに打くどきて、「猶かなはずしてつゐにうしなはれば、尼がかひなき命いきても何かせん。其うへ右馬助がおも影に似たりときくより、いつしか家盛が事思はれて、はたとむねふたがり、湯水も心よくのまれねば、をのづからひさしかるべしともおぼえ侍らず。哀尼が命をいかさんとおぼしめさば、兵衛佐をたすけ給へかし。」となげき給へば、重盛も迷惑せられけるが、涙ををさへて、「さ候はゞ今一度御定の趣を申てこそ見候はめ。同尾張殿をもそへ申され候へ。もろともに仰のよしくはしくかたり侍らん。」とて、頼盛と共にかさねて此よしを申されければ、清盛もさすが石木ならねば、案じわづらはれけるに、重盛、「女姓のいはけなき御心におもひしづみて、申させ給ふ事を、さのみはいかゞ仰候べき。然るべき御はからひも候はずは、御うらみふかく侍べし。あの頼朝一人誅せられ候とも、つきん御果報の長久なるべきにあらず。当家の運すゑにならば、諸国の源氏いづれか敵ならざらん。又たすけをかれたりとも、栄雄後輩に及べくは、何の恐か候べき。」と、理をつくして申されければ、まづ十三日をば延られて、慥の返事はなかりけり。然れば、けふきらるゝ、あすうしなはるゝなどきこえしかども、其日も延ければ、兵衛佐、これはひとへに氏神八幡大菩薩の御助なりと、弥心中に祈念ふかくぞおはしける。かく一日も命いきたらば、念仏をも申経をもよみて、父の後世をとぶらはんとて、卒都婆をつくらむとし給へ共、人、刀をゆるし奉らねば、丹波藤三をかたら(う)て、小刀并に木のきれを乞給へば、国弘、「何事の御手すさみぞや。頭殿を始まいらせて、御兄弟おほくうせさせ給ふに、御経をもあそばさで。」と申せば、兵衛佐、「天下に物おもふ者、われにまさる人あらじとこそ思へ。去年の三月に母にをくれ、今年の正月に父うたれ給。義平・朝長にもわかれ奉る。されば此人々の菩提をもとはんと思ひて、そとばをなりともつくらばやと思ふ故也。就中、故頭殿の六七日もけふあす也。四十九日も近づけば、ことなる供仏施僧の儀こそ叶はずとも、それをせめての志にせんと思へば、刀をたづぬる也。」との給ければ、国弘も哀におぼえて、弥平兵衛に此よしをかたれば、宗清感じ奉て、ちいさき卒都婆百本作て奉る。みづからも造立書写して、或僧にあつらへて、かたのごとく供養の義をぞとげられける。池殿かやうの事どもをきゝ給ひて、弥いたはしく思食ければ、やう<に申されて流罪にぞさだまりける。 其時人申けるは、「大草香親王の御子眉輸王は、七歳のとき、父の敵、継父安康天皇を害し奉り、栗屋川次郎貞任が子千代童子は、十二のとし甲冑を帯し、父と一所に討死す。頼朝はすでに十四歳ぞかし。父うたれぬときかば、自害をもせで、尼公に属して、かひなき命いきんと欺くこそ無下なれ。」と申せば、又或人、「いや<おそろし。義朝不義の謀叛にくみして、運命をうしなふ事はさる事なれども、つら<事の心を思ふに、保元の忠節抜郡なれ共、恩賞これをろそかにして、大かたの清盛にはをとれり。よ(っ)て勲功のうすき事をうらみて、おこす所の叛逆なれば、君の御政のたゞしからざりしよりおこす所なれ共、下として上をしのぐがゆへに、身をほろぼし畢。然りといへども、大忠の余薫は家にとゞまれり。これをも(っ)て氏族の中に、必門葉をさかやかす輩あるべき也。頼朝おさなしといへども、父が子なれば、かやうの事を心にこめてや命をおしむらん。いかなる名将勇士も命あ(っ)ての事なり。されば越王の会稽の恥をきよめしも、命をま(っ)たうせしゆへ也。 たとへば呉国に越王勾践、呉王夫差とて、両国の王、互に国を合せんとあらそふが故に、呉は越の宿世の敵なり。よ(っ)て越王十一年二月上旬に、臣范蠡に向(っ)て、『夫差はこれ我父租の敵也。討ずして年を送る事、人のあざけりをとる所也。今我向(っ)て呉をせむべし。汝はわれにかは(っ)て国をおさめよ。』との給ふに、范蠡が申さく、『越は十万騎、呉は廿萬騎なり。小をも(っ)て大に敵せず。又春夏は陽の刻にて、忠賞をおこなひ、秋冬は陰の時にて刑罰を専とす。今年春の始也、征罰を致すべからず。隣国に賢人あるは敵国のうれへといへり。いはんや彼臣伍子胥は智ふかうして人をなづけ、慮とをうして主をいさむ。是三の不可なり。』といさめければ、勾践かさねていはく、『礼にいはく、父のあたには共に天をいたゞかず。軍の勝負必勢の多少によらず。時の運にしたがひ、時のはかりことにある者也。是汝が武略のたらざるゆへ也。もし時をも(っ)て勝負をはからば、天下の人みな時をしる。誰かいくさにかたざらん。これ汝が智慮のあさき所也。伍子胥があらんほどは、うつこと叶はじといはば、かれと我と死生しりがたし。いつをか期すべき。汝が愚三也。』とて、つひに呉に向ふ所に、越王うちまけて会稽山に引こもるといへども、かなひがたきがゆへに、降人と成て、面縛せられ、呉の姑蘇城に入て、手かせあしかせ入られて、獄中にくるしみ給ひけるに、范蠡きゝて、肺肝をくだきけるあまりに、あじかに魚をいれて、商人のまねをして、姑蘇城に至て、一喉の魚を獄中になげ入けるに、腹の中に一句を納たり。其ことばにいはく、『西伯囚二姜里一、重耳奔二于雉一、皆以為二覇王一。莫二死於許一レ敵。』勾践此一句をみて、弥命をおもんじ、石林をなめて本国にかへる時、行路に蟇のおどり出来るを下馬して拝す。国の人これをあやしみけるを知て、范蠡むかへにまいりけるが、『此君はいさめる者を賞じ給ふぞ。』と申ければ、近国の勇士つきしたが(う)て、つゐに呉王をほろぼして、国をあはせ畢ぬ。されば俗のことわざには、『石淋の味をなめて、会稽の恥をきよむ』といへり。頼朝も命ま(っ)たくはと思へば、尼公にもつき、入道にもいへ、たすかるこそ肝要なれ。」とぞ申ける。



