平治物語 - 30 頼朝生捕らるる事付けたり常葉落ちらるる事

 同二月九日、義朝の三男前右兵衛佐頼朝、尾張守の手より生捕て、六波羅につき給ふ。同次男中宮大夫進朝長の頸をも奉らる。その故は、彼尾張守の家人、弥平兵衛宗清尾州より上洛しけるが、不破の関のあなた、関が原といふ所にて、なまめいたる小冠者、宗清が大勢におそれて、薮の陰へ立しのびければ、あやしみてさがすほどに、かくれ所なくしてとらはれ給ふに、宗清みれば、兵衛佐殿也しかば、よろこぶ事かぎりなし。やがて具足し奉(っ)てのぼるほどに、あふはかの大炊がもとにぞ宿しける。いさゝかきくかへり事ありければ、何となく後苑にいでゝ見まはすに、あたらしく壇つきたる所に、そとばを一本たてたり。則其下をほらせければ、おさなき人の頸とむくろとをさしあはせてうづみたり。是を取て事の子細をたづぬれば、力なく大炊ありのまゝにぞ申ける。宗清喜て、同じく持参しける也。よ(っ)て頼朝をば、先宗清にぞあづけをきける。 其時、延寿腹の姫君、兵衛佐のめしとられ給て、都へ上られければ、「我も義朝の子なれば、女子なりとも、つゐにはよも助けられじ。ひとり<うしなはれんよりは、佐殿とおなじ道にこそせめてならめ。」とて、ふししづみ給ひけるを、大炊・延寿色々になぐさめてとりとゞめ奉りけり。其瀬過ければ、さりともと思ひて心ゆるししけるにや、二月十一日の夜、々叉御前たゞひとりあふはかの宿を出、はるかにへだゝりたる杭瀬河に身をなげてこそうせ給へ。十一歳とぞきこえし。物の夫の子はなどかおさなき女子もたけかるらんとて、哀をもよほさぬ者もなかりけり。母の延寿は、志ふかかりし頭殿にもをくれ奉り、其かたみとも思ひなぐさみし姫君にも別にければ、一方ならぬ物おもひに、同じ流に身をしづめんと歎きけるを、大炊様々にこしらへければ、母の心もやぶりがたくて、せめてのかなしさに尼になり、亡夫并に姫君の後の世を他事なくとぶらひけると也。 六はらより左馬頭の子ども尋られけるに、すでに三人出来たり。兄二人ははや頸をかけられぬ。頼朝もやがて誅せらるべし。此外、九条院の雑仕常葉が腹に三人あり。みな男子にてあ(ん)なりとて尋られければ、常葉これをきゝて、「われ、故頭殿にをくれ奉(っ)て、せんかたなきにも、此わすれがたみにこそ、今日までもなぐさむに、もし敵にもとられなば、片時もたへて有べき心ちもせず。さればとて、はか<”しく立忍ぶべき便もなし。身一つだにもかくしがたきに、三人の子を引具しては、たれかはしばしもやどすべき。」となきかなしみけるが、あまりに思ひうる方もなきまゝに、「年来たのみ奉りたる観音にこそなげき申さめ。」とて、二月九日の夜に入て、三人のおさなひ人を引具して、清水へこそ参りけれ。母にもしらせじと思ひければ、女の童のひとりをも具せずして、八になる今若をばさきにたてゝ、六歳の乙若をば手をひき、牛若は二になれば、ふところにいだきつゝ、たそがれ時に宿をいで、足に任てたどりゆく心の中こそ哀なれ。仏前に参(っ)ても、二人の子供をわきにすへ、只さめ<”となきゐたり。夜もすがらの祈請にも、「童、九の歳より月詣を始て、十五になるまでは、十八日ごとに卅三巻の普門品をよみ奉り、其年より毎月法華経三部、十九のとしより、日ごとに此卅三体の聖容をうつし奉る。かくのごとき志、大慈大悲の御ちかひにて、てらししろしめすならば、わらはが事はともかくも、たゞ三人の子共のかひなき命を助させ給へ。」とくどきけり。誠に三十三身の春の花、にほはぬ袖もあらじかし。十九説法の秋の月、照さぬむねもなかるべければ、さすがに千手千眼も、哀とはみそなはし給ふらんとぞおぼえける。 やうやう暁にもなりゆけば、師の坊へ入けるに、日来は左馬頭の最愛の妻なりしかば、参詣の折々には、供の人にいたるまで、きよげにこそありしか、今は引かへて、身をやつせるのみならず、つきせぬなげきになきしほれたるすがた、めもあてられねば、師の僧あまりのかなしさに、「年来の御なさけ、いかでかわすれまいらせん。おさなひ人もいたはしければ、しばしはしのびてましませかし。」と申せば、「御志はうれしく侍れども、六波羅ちかき所なれば、しばしもいかゞさぶらはむ。まことに忘給はずは、仏神の御あはれみよりほかは、たのむ方も侍らねば、観音に能能祈り申てたび給へ。」とて、まだ夜の中に出ければ、坊主なく<、「唐の太宗は仏像を礼して、労花を一生の春の風にひらき、漢の明帝は経典を信じて、寿命を秋の月に延と申せば、三宝の御助むなしかるまじく候。」となぐさめけり。宇多郡を心ざせば、大和大路を尋つゝ、南をさしてあゆめども、ならはぬ旅の朝立に、露とあらそふ我涙、たもともすそもしほれけり。衣更着十日の事なれば、余寒猶はげしく、嵐にこほる道芝の、こほりに足はやぶれつゝ、血にそむ衣のすそご故、よその袖さへしほれけり。はう<伏見の叔母を尋ゆきたれども、いにしへ源氏の大将軍の北方などいひし時こそ、むつびもしたしみしか、いまほ謀叛人の妻子となれば、うるさしとや思ひけん、物まふでしたりとて、情なかりしか共、もしやとしばしは待居つゝ、待期もすぎて立かへれば、日もはややがて暮にけり。又立よるべき所もなければ、あやしげなる柴の戸にたゝずみしに、内より女たち出て、なさけありてぞやどしける。世にたゝぬ身の旅ねとて、うきふししげき竹のはしら、あるかひもなき命もて、ひとりなげきぞ、すがの七節ふと思ふ人はなし。されど今夜も三みふにたゞ伏見の里に夜をあかし、出ればやがて小幡山、馬はあらばやかちにても、君をおもへばゆくぞとよと、おさなき人にかたりつゝ、いざなひゆけば、此人々あゆみつかれてひれふし給ふ。常葉、ひとりをいだきける上に、ふたりの人の手をひき、こしををさへて、ゆきなやみたるありさま、めもあてられず。王鉾の道行人もあやしめば、是も敵のかたさまの人にやと肝をけす所に、旅も哀れにおもひければ、見る者ごとにおひいだきて助けゆくほどに、なく<大和国字多郡龍門といふ所に尋いたり、伯父をたのみてかくれゐにけり。