仁安二年十一月、清盛やまひにおかされ、とし五十一にして出家し、法名浄海とぞ申ける。出家のゆへにや、宿病次第に本復して、翌年の夏の比、一門の人々面面によろこび事をなしける。同七月七日、摂津国布引の瀧見んとて、入道を始て平氏の人々下られけるに、難波三郎ばかり、夢見あしき事ありとて、供せざりしかば、傍輩ども、「弓矢とる身の、何条夢見・物忌など云、さるおめたる事やある。」とわらひければ、経房も、げにもと思ひてはしり下り、夢さめて参たるよし申せば、中々興にて、諸人瀧をながめて感をもよほすおりふし、天にはかにくもり、おびたゝしくはたゝがみ鳴(っ)て、人々興をさます所に、難波三郎申けるは、「我恐怖する事是なり。先年悪源太最後のことばに、つゐには雷と成(っ)てけころさんずるぞとて、にらみし眼つねにみえて六かしきに、彼人いかづちと成たりと夢に見しぞとよ。只今、手鞠ばかりの物の、辰巳の方より飛つるは、面々は見給はぬか。それこそ義平の霊魂よ。一定かへりさまに経房にかゝらんとおぼゆるぞ。さりとも太刀はぬきてん物を。」と、いひもはてねば、霹靂おびたゝしくして、経房が上に黒雲おほふとぞ見えし、微塵に成(っ)て死にけり。太刀は抜たりけるが、鐸本までそり返りたりしを、結縁のために、寺造の釘によせられぬ。おそろしなどもをろか也。入道は、弘法大師の御筆をまもりにかけられたりしを、おそろしさのあまりに頸にかけながら、しきりに打ふるひ<ぞせられける。誠にまもりの徳にや、近付やうにみえしが、つゐに空へぞ上りける。 悪源太は、十三の年鎌倉に下り、去年十九にて都にのぼり、殊なる思出もなくして、生年廿にして、永暦元年正月廿五日に、つゐにむなしく成にけり。



