同廿五日、鎌倉の悪源太、近江国石山寺の辺にしのびてゐ給けるを、難波三郎経房が郎等いけどり奉て、六はらへゐてまいる。去ぬる十八日、三条烏丸なる所に、やつれおはしけるを、平家の大勢とりこめけれ共、打破て落られける也。其故は、悪源太、父のをしへに任て、山道をせめのぼらんとて、飛騨国に下り給ふに、勢のつく事なのめならず。然るに、義朝うたれ給ぬときこえしかば、みな心がはりして、我身ひとりに成ぬれば、自害をせんとし給ひしが、いたづらに死なんよりは、親の敵の清盛父子が間、一人なりとも討(っ)て、無念を散ぜんと思ひ返して、都にのぼり六はらにのぞみてうかゞひ給ふ所に、左馬頭の郎等、丹波国住人、志内六郎景澄といふ者に行あひ、「いかに汝、日来の契約は。」との給へば、「いかでか忘奉り候べき。去ながら身不肖にして、見知人もなければ、敵をはか(っ)て命をつがんと存じて、しる者に付て、やがて平家の被官となり侍。御めにかゝるぞ幸なる。何が思食。」といひければ、則景澄をたのみてかれを主とし、義平下人に成て、太刀はき物を持て六はらに入、敵に近付てうかゞひみられけり。 景澄つねにしたゝめしけるに、下人と一所に有て、あへて人にみせざりしかば、家主心もとなくや思ひけん、なにとなく障子の隙より見ゐれば、景澄が膳をば下人にすへ、下人の飯をば景澄くゐしかば、「あはれ、此人は源氏の郎等ときこえしが、うたがひなき悪源太とやらんをかくしをいて、六はらをうかゞひ申にこそ。余所よりきこえてはあしかりなむ。」とて、いそぎ平家に此よしつげたりしかば、取物もとりあへず、十八日の酉刻ばかりに、難波次郎経遠、三百余騎にてをしよせ、四方をとりまきて、「鎌倉悪源太のおはしますか。六はらより難波次郎経遠が御むかへにまいり候。」とよばゝりければ、御曹司、はかまのそばたかくはさみ、石切をぬくまゝに、「源義平こゝにあり。よれや、手がらのほど見せむ。」とてはしり出、其前にすゝみたる兵四五人きりふせて、小屋の軒に手うちかけ、ひらりとのぼりて、家つゞきにいづく共なくうせ給へるが、石山の辺におはしける也。 悪源太六波羅にての給けるは、「我、敵にうかゞひよらんとて、或時は馬をひかへて門にたゝずみ、或時は履をさゝげて線にいた(っ)て、相近づかんとせしが、運つきぬれば、本意を達せずして、生ながらとらはるゝ事力なき次第なり。義平ほどの大事の敵を、しばしもをく事然るべからず。すみやかに誅せられよ。」とて、其後は物もの給はず。やがて難波三郎に仰て、六条河原にをひて誅せられけるに、敷皮の上になを(っ)て、ち(っ)とも臆せず申されけるは、「敵ながらも義平ほどの者を、自昼に河原にてきらるゝ事こそ遺恨なれ。去ぬる保元に、おほくの源平の兵ども誅せられしかども、ひるは西山・東山のかたほとりにてきり、たま<川原にてきらるゝをも、夜に入てこそきられけるなれ。弓矢とる身の習は、今日は人の上、明日は身のうへにてある物を。平家の奴原は、上下ともにすべて情なく、物もしらぬ者ども也。去年熊野詣のとき、路次に馳向(っ)てうたんといひしを、すかしよせて一度にほろぼさんと、信頼といふ不覚人がいひしに付て、今日かゝる恥を見るこそ口惜けれ。湯浅・藤代の辺にて、とりこめてうつか、阿部野のかたに待うけて、一人も残さず打とるべかりし物を。」との給へば、難波三郎、「これは何の後言をいはせ申候ぞ。」と申せば、悪源太あざ咲(わらひ)て、「いしういふたり。げにわが為にはあらそはぬ後言ぞ。やれ、をのれは義平が頸うつほどの者か。はれの所作ぞ。ようきれ。あしうきるならば、しやつらにくいつかむずるぞ。」との給へば、「おこの事仰らるゝ物かな。何条わが手に懸奉らん頸の、いかでかつらにはくい付給はん。」と申せば、「誠に只今くいつかんずるにはあらず。つゐには必雷と成て、けころさんずるぞ。」とて、殊更頸たからかにさしあげ給へば、経房太刀をぬき、うしろへまはれば、「ようきれ。」とて見かへりて、にらまれける眼ざしは、げに凡人とはみえざりけり。さればにやつゐにはいふにたがはず、いかづちと成て、難波三郎をばけころし給ひける也。