平治物語 - 23 義朝野間下向の事付けたり忠宗心替りの事

 かくてもあるべきならねば、やがて立出給ふ。大炊は、「是にて御としを送り、静に御下り候へ。」と申けれ共、「こゝは海道なればあしかりぬべし。朝長をば見つぎ給へ。」とて、いでんとし給ふ所に、宿の者どもきゝつけて、二三百人をしよせたり。佐渡式部大夫これをみて、「こゝをば重成打死して、とをしまいらせ候はん。」とて、或家にはしり入、馬ひきいだし打乗て、「狼籍也。雑人ども。」とて、散々にけちらして子安の森にはせ入、向敵十余人射ころし、「左馬頭義朝自害するぞ。我手にかけたりなど論ずべからず。」とて、まづ面の皮をけづり、腹十文字に掻切(っ)て、廿九と申に、つゐにむなしくなり給ふ。みな是を大将とおもひてかへりてければ、夜に入て宿を出給ふ。 中宮大夫は、夜あくるまで出られざれば、大炊参(っ)て見奉れば、むなしく成給へるに、小袖引かけてをかれたりしかば、「見つぎまいらせよとは、御孝養申せとにてありけり。」とて、なく<うしろの竹原の中におさめ奉りけり。 其後、平賀四郎にもいとまたびて、勢を付てせめのぼり給ふべきよしの給へば、「さていづくをさして御下り候ぞ。」と申されければ、「まづ尾張の野間にゆき、忠宗に馬・物具こひてとをらんずる。」とのたまへば、平賀、「長田は大徳人にて世をうかゞふ者なれば、落人をかくし奉らん事いかゞ。」と申けれども、「さりとも鎌田がしうとなれば、何事かあらん。」との給へば、「さては義宣は御のぼりに参りあひ奉らん。」とて別けり。 義朝、鎌田をめして、「海道は宿々とをり得がたか(ん)なる。是より海上を内海へつかばやと思ふはいかに。」とのたまへば、「鷲の栖の玄光と申は、大炊が弟也。かくれなき強盗名誉の大剛の者にて候。たのみて御覧候へ。」と申せば、然るべしとて、此由を仰らるゝに、玄光よろこんで、「是ならずは何事か頭殿の御用あるべき。」とて、小船にて下る所に、府津に関すへて舟をもさがしければ、此船をもよせよとて、「何船ぞ。」ととがむれば、「玄光ぞかし。」といふ。「玄光ならんには、いかに夜は行ぞ。」といへば、「今日明日ばかりの年の内なれば、夜もえやすまぬぞ。」とてこぎとをる。同廿九日には、尾張国智多郡野間の内海につき給ふ。長田庄司忠宗うけ取奉り、様々にもてなし申せども、「御馬をまいらせよ。いそぎ御とをり有べし。」との給ければ、「せめて三日の御いはひすぎてこそ御たち候べけれ。」とて、しきりにとゞめ奉れば、力なく逗留し給ふ。 さる程に、長田庄司、子息先生景宗を近付て、「さても此殿をばとをしや奉る、これにて討申べきか、いかに。」といふに、景宗申けるは、「東国へ下り給ふとも、人よも助まいらせん。人の高名になさんよりも、これにてうち奉(っ)て、平家の見参に入、義朝の知行分をも申たまはらば、子孫繁昌にてこそ候はんずれ。」といひければ、「尤然るべし。但名将の御事なれば、小勢なりとも、討奉らん事大事也。」と申せば、「御湯ひかせ給へとて、浜殿へすかし入奉て、橘七五郎は、近国にならびなき大力なれば、組手なるべし。弥七兵衛・濱田三郎は手きゝなれば、指ころしまいらすべし。鎌田をば内へめされて、酒をしゐふせ、軍のやうをとひ給へ。頭殿打れ給ひぬときゝてはしり出ば、妻戸の陰にまちうけて、景宗きりふせ候はん。金王丸と玄光法師をば、外侍にて、若者共の中にとりこめ、引張てさしころし候はんに、何の子細候べき。」とはからへば、湯殿しつらひて、正月三日に庄司御前にまいり、「都の御合戦、道すがらの御辛労に、御湯めされ候へ。」と申せば、然るべしとて、やがて湯殿へいり給へば、三人の者隙をうかゞふに、金王丸御剣を持て、御あかにまいりければ、すべてうつべきやうぞなき。程へて、「御かたびらまいらせよ。」といへども、人もなき間、金王丸腹を立はしり出ける其ひまに、三人の者どもはしりちがひてつと入、橘七五郎むずとくみ奉れば、心得たりとて取(っ)て引よせ、をしふせ給ふ所を、二人の者ども左右より寄て、脇の下を二刀づゝさし奉れば、心はたけしと申せども、「鎌田はなきか、金王丸は。」とて、つゐにむなしくなり給ふ。金王丸はしり帰て、是をみて、「にくゐやつばら、一人もあますまじ。」とて、三人ながら湯殿の口にきりふせたり。 鎌田兵衛は、忠宗に向て酒をのみけるが、此よしをきゝてつい立所を、酌取ける男、刀をぬいてとびかゝる。政家と(っ)て引よせ、其かたなをも(っ)て二刀さす所を、うしろより景宗本頸をう(っ)てうちおとす。鎌田も今年卅八、頭殿と同年にてうせにけり。玄光法師は、頭殿うたれ給ひぬときいて、「是は鎌田がわざにてぞ有らむ。先政家をうたん。」とて、長太刀持てはしりまはりけるが、鎌田もはやうたれぬときゝて、「さらば長田めを討ばや。」とて、金王丸と二人、面もふらず切(っ)てまはり、あまたの敵切ふせて、塗籠の口までせめ入けれども、美濃・尾張のならひ、用心きびしき故に、帳台のかまへしたゝかにこしらへたれば、力なく長田父子をば討えずして、馬屋にはしり入て馬引出し、うちのり<、「とゞめむと思はゞとゞめよ。」とよばゝりけれ共、遠矢少々射かけたる計にて、近付者なかりしかば、玄光はわしのすにとゞまり、金王は都へのぼりけり。 鎌田が妻女これをきゝ、うたれし所に尋ゆき、むなしき死骸にいだき付、「われは女の身なれ共、全二心はなき物を、いかにうらめしく思ひ給ふらん。親子の中と申せども、我もさこそ思ひ侍れ。あかぬ中にはけふすでにわかれぬ。情なき親にそふならば、又もうきめや見んずらん。おなじ道にぐし給へ。」とて、しばしはなきゐたりけるが、夫の刀をぬくまゝに、心もとにさしあて、うつぶさまにふしければ、つらぬかれてぞうせにける。忠宗、左馬頭をうち奉る事は、よろこびなれども、最愛のむすめをころして、なげきにこそしづみけれ。景宗、頭殿の御頸、并に鎌田が頸をとり、死骸共をばひとつ穴にほりうづむ。いかに勲功をのぞめばとて、相伝の主をうち、現在のむこを害しける忠宗が所存をば、にくまぬ者もなかりけり。 安禄山が主君玄宗をかたぶけて、養母楊貴妃をころし、天下を宰どりしか共、其子安慶緒にころされ、安慶緒は又、父をころしたるによ(っ)て、史師明に害されて、程なく禄山が跡たえぬ。忠宗も行末いかゞあらんと、人みな申侍き。譜代の家人なる上、鎌田兵衛もむこなれば、義朝のたのみ給ふもことはり也。情なかりし所存かな。しらぬは人のこゝろ也。されば白氏文集、「天をも度つべく、地をもはかりつべし。たゞ人のみ防べからず。海底の魚も、天上の鳥も、高けれども射つべく、深けれども釣つべし。ひとり人の心のあひむかへる時、咫尺の間もはかる事あたはず。陰陽神変みなはかりつべし。人間のゑみは是いかりなりといふ事を。」と書も、今こそ思ひしられたれ。