平治物語 - 25 金王丸尾張より馳せ上る事

 隙駟つなぎがたうして、喜にも易ふうつり、なげくにも又とゞまらざれば、浅ましかりし年も暮、平治二年に成にけり。正月朔日、あらたまのとし立帰りたれ共、内裏には元日元三の儀式ことよろしからず、天慶の例とて朝拝もとゞめらる。院も仁和寺にわたらせ給へば、拝礼もなかりけり。 かゝ(っ)し所に、正月五日、いまだ朝の事なるに、左馬頭のわらは金王丸、常葉がもとに来て、馬より飛でおり、しばしが程は涙にしづみ、やゝ有て、「此三日のあかつき、尾張国野間と申所にて、長田四郎がために、うたれさせ給ひ候ぬ。」と申せば、きゝもあへず、ときはを始ておさなき人々、声々になき悲しみ給ふぞあはれなる。其後道すがらの事どもくはしくかたり申しゝにぞ、朝長のうせ給ひ、毛利の六郎のうたれ給をもきゝ給ひける。陸奥六郎義隆は、相模の毛利を知行せられければ、毛利の冠者とも申けり。 常葉かやうの事どもをきいて、「さばかりの軍の中よりも、汝をも(っ)ておさなき者どもの事を、心ぐるしげに仰られしに、すでにむなしく成給ひぬ。それに付ても、あの公達をばいかゞすべき。」とて、ふししづみければ、金王もなく<申けるは、「わらはも御供仕(っ)て、いかにも成べく候しかども、道すがらもきんだちの御事のみ、心ぐるしき御事に仰候しかば、か様の事をも誰かはまいりてしらせまいらすべきと存じて、かひなき命いきて参り侍也。御子息たちもみな散々になり給ひぬ。鎌倉の御曹司も兵衛佐殿も、さだめて敵にこそとらはれ給らめ。おさなきは猶たのみなし。然れば御菩提をば、たれかはとぶらひまいらすべきなれば、年来の御なじみに、それがしなりとも僧法師にもまかりなり、なき御跡を問奉らむ。」と申て、やがてはしり出けるが、或寺に入て出家し、諸国七道修行して、義朝の後世をとぶらひ申けるぞ有がたき。